当時の日本政府の対応
慰安婦の事が日本の国会で初めて取り上げられたのは先ほど述べたように、
1990年6月6日の参議院でした。
予算委員会で労働省清水傳雄職業安定局長は次のように答弁しました。
●従軍慰安婦なるものにつきまして・・・・
やはり民間の業者がそうした方々を軍と共に連れて歩いているとか、
そういうふうな状況のようでございまして、
こうした実体について、私どもとして調査して結果をだすことは、
率直に申しまして出来かねると思っております。
つまり政府としては調査しないということです。
1990年5月、韓国の盧泰愚大統領の訪日時に、
韓国の市民団体からの要望書が出された事はすでに述べました。
日本政府は1965年の「日韓請求権協定」ですでに解決済みであるとの立場を取り、
韓国政府もそれに近いような考えでした。
しかし細かいところでは両国の解釈や見解は違っていました。
●日本政府は1965年当時、議題に上がっていなかった「慰安婦問題」も解決済みと主張し、
韓国政府は議題に上がっていなかった事は含まれていず、未解決であると主張しています。
その後世界的に、国際法上国家同士の協定があっても個人の請求権は残っているのではないか、
という解釈が出始めました。
日本ではシベリア抑留者のソ連に対する個人の請求権があるのかが話題になっていました。
その国会答弁が韓国の慰安婦問題と関連するようになります。
●1991年3月26日 参議院内閣委員会 シベリア抑留者に対する質疑
翫正敏議員
・・・・条約上、国が放棄をしても個々人がソ連政府に対して請求する権利はある、
こういうふうに考えられますが、・・・・
本人または遺族の人が個々に賃金を請求する
権利はある、こういうことでいいですか。
高島有終外務大臣官房審議官
私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます
請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び
国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。
したがいまして、ご指摘のように
我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも
放棄したものではないというふうに考えております。
この答弁が日韓問題にも影響を及ぼすようになりました。
●1991年8月27日 参議院予算委員会での答弁
柳井俊二外務省条約局長
・・・・先生ご承知のとおり、
いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は
最終かつ完全に解決したわけでございます。
その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりました
それぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、
これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を
相互に放棄したということでございます。
したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを
国内法的な意味で消滅させたというものではございません。
日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、
こういう意味でございます。
●1992年2月26日 衆議院外務委員会での答弁
柳井俊二外務省条約局長
・・・・それで、しからばその個人のいわゆる請求権というものを
どう処理したかということになりますが、
この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、
韓国の方々について申し上げれば、
韓国の方々が我が国に対して個人として
そのような請求を提起するということまでは妨げていない。
しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、
外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。
・・・・その国内法によって消滅させていない
請求権はしからば何かということになりますが、
これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、
日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が
訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。・・・・
ただ、これを裁判の結果どういうふうに判断するかということは、
これは司法府の方の判断によるということでございます。
●1992年3月9日 衆議院予算委員会
伊東秀子委員
・・・・今法制局長がお答えくださいましたように、
外交保護権の放棄が個人の請求権の消滅には何ら影響を及ぼさない、
とすれば、全く影響を受けていない個人の請求権が
訴権だけだという論理が成り立つか否かという見解、
解釈を伺っているのでございますが、
いかがでしょう。
工藤敦夫内閣法制局長官
訴権だけというふうに申し上げているいることではないと存じます。
それは、訴えた場合に、それの訴訟が認められるかどうかという問題まで
当然裁判所は判断されるものと考えております。
●1994年3月25日、の衆議院内閣委員会での答弁
竹内行夫外務大臣官房審議官
個人としての請求を例えば裁判所に提起するという
権利まで奪われているということではない。
これらを見ると、国は個人の国に対する請求権を認め方向になったことが分かります。
そして韓国人が日本の裁判所に訴えることを出来るとしながら、
その訴訟が認められるかどうかは裁判所の判断としています。
仕方がない、渋々といった内容です。
1991年に金学順さんが名乗り出た頃は、
加藤紘一官房長官も「日本政府が関与した資料はなく、
今のところ政府が対処するのは困難」としていました。
しかし12月10日、韓国外務部が駐韓大使の川島純公使に真相究明を求めると、
翌11日、日本政府は慰安婦問題について調査することを表明しました。
その後1992年1月11日、中央大学の吉見義明教授が朝日新聞に、
「日本軍の関与を示す防衛庁図書館の資料を発見」、と発表しました。
この報道は反響を呼び、その結果国は謝罪する方向へと傾いていきます。
丁度宮澤総理が訪韓直前だったため、
1月12日、とりあえず加藤紘一官房長官は日本軍の関与を認め、
13日に謝罪談話を発表し、
17日には訪韓した宮澤首相は日韓会談で公式に謝罪しました。
参考までにその前後の日本の内閣を一覧表にしました。
慰安婦に関する流れと照らし合わせてください。
保守であっても民主的な総理大臣と官房長官の時に流れが出来たことがわかります。
内閣名 | 時期 | 官房長官 |
海部俊樹内閣 | 1989年8月~1991年11月 | 数名交替 |
宮澤喜一内閣 | 1991年11月~1993年8月 | 加藤紘一 |
細川護煕内閣 | 1993年8月~1994年4月 | 竹村正義 |
羽田孜内閣 | 1994年4月~6月 | 熊谷弘 |
村山富一内閣 | 1994年6月~1996月1月 | 河野洋平 |
橋本龍太郎内閣 | 1996年1月~1998年7月 | 数名交替 |
●次に日韓の流れを中心に概略を表にしました。
年 | 月日 | 動き |
1970代 |
| 日本人のキ-セン観光に韓国の女性たちの批判が高まる |
1977 |
| 日本で松井やより氏を中心にキ-セン観光反対運動が起きる |
1984 |
| 松井やより氏が元慰安婦盧寿福のインタビュ-を朝日新聞に連載 |
1988 |
| 韓国梨花女子大学教授・尹貞玉さんがアジア各地の取材を始めた。 |
1990 | 1 | 尹貞玉さんハンギョレ新聞に「挺身隊取材記」を連載 |
1990 | 5.18 | 韓国女性団体連合会、日韓両政府に声明を発表 |
| 5.24~26 | 盧泰愚韓国大統領来日 |
| 6.6 | 社会党の本岡参議院議員、国会で慰安婦問題について質問 労働省清水局長、調査はしないと答弁 |
| 11 | 韓国で元慰安婦のの支援団体「挺身隊問題対策協議会」結成 |
| 12 | ソウルのアジア女性人身売買問題会議で慰安婦問題の報告 |
1991 | 8 | 元慰安婦・金学順さん、実名で証言 |
| 8.27 | 柳井条約局長、国会で個人の請求権があると答弁 |
| 11.28 | 金学順さん、NHK「ニュ-ス21」のインタビュ-を受ける |
| 12.6 | 元慰安婦、日本政府を東京地裁に提訴 |
| 12.10 | 韓国政府、日本政府に真相究明を求める |
| 12.11 | 日本政府、慰安婦問題について調査することを表明 |
1992 | 1.11 | 朝日新聞、防衛庁防衛研究所図書館で、軍が関与した史料を発見と報道 (吉見教授が発見) |
| 1.13 | 加藤官房長官、慰安婦の募集・経営に日本軍の関与を認め、謝罪 |
| 1.16~18 | 宮澤首相、訪韓して首脳会談や国会演説で謝罪 |
| 7.6 | 加藤官房長官、調査結果を発表、慰安婦問題に軍の関与を認め、謝罪 |
| 7.31 | 韓国政府、事実上の強制連行があったとする独自の報告書を発表 |
| 9 | フィリピンで初の証言者が出る |
1993 | 3.23 | 河野官房長官、元慰安婦に対する聞き取り調査の実施に言及 |
| 6 | ウイ-ンで開かれた「国連世界人権会議」で始めて取り上げられる |
| 7.26~30 | 日本政府、ソウルで元慰安婦16人から聞き取り調査を実施 |
| 8.4 | 河野官房長官、調査結果を発表、謝罪(河野談話) |
1994 | 3.25 | 竹内官房審議官、個人の請求があると答弁 |
| 8.31 | 村山首相、「平和友好交流計画」の談話でお詫びと反省の気持ちを表明 |
1995 | 7.19 | アジア女性基金設立 |
| 8~9 | 北京で開かれた第4回世界女性会議で行動綱領に取り上げられた |
1997 |
| 橋本龍太郎内閣の時、中学の教科書に慰安分問題が記述が始まる |