1945年、細菌戦の中止 と日本軍資料
[浙江省雲和県]
1945年4月14~15日、
撤退を前にした日本軍は、
ペスト菌を持ったノミを混ぜた綿、あめ、
ビスケット、おもちゃなどを雲和県に投下し、
その後間もなくして、雲和の県城、貴渓、象山、
赤石等の町や村でペストが発生しました。
不完全な統計でも義最者は1075名といわれています。
これが最後の細菌戦かもしれません。
● 大塚備忘録から
1月8日
局長より
宮崎第1部長-石井少将の件
大臣決済
1、ほ号作戦はやらぬ
2、原材糧で促進する
3、謀略的使用をなす事あり
300kg-現在で出来る
局長
300キロ作らせる様発進するが可と思う
これが為主計、薬剤官を附けてくれと云うからやる
機構 ほ号の整備、補給
小出
現在の機構と人員では300キロは出来ぬ
満州 150キロ 餅22.5万、21万9千補給
満州で白餅1.0万
注:細菌戦が中止になったのです。
しかし謀略的実施は中止されず
増産は続けられました。
7月24日
(発疹チフスの診断液を作る為に
ネズミ増産の要望が出された時)
神林医務局長
ホ号は全面的に中止
注:大臣決済は1月8日ですが、
実質的にはこの頃が細菌戦の
完全中止の時期だと思われます。
●証言 松本正一 731部隊航空班
1945年8月11日だったと思うが、
上官から証拠はただちに
隠滅せよとの命令があったので、
格納庫、飛行機など全部燃やした。
それから、帰国のために残しておいた
飛行機で瀋陽に行き、
そこで玉音放送を聞いて敗戦を知った。
そしてサイパンやグアム島に対する
最後の最近攻撃の為約20人の部隊が出動しましたが
船が途中で撃沈され失敗しました。
また連合軍が上陸するのを待って
沖縄や小笠原に細菌攻撃する案が出たりしましたが
これは実行に移されませんでした。
日本軍が守ってくれると信じ,結局切り離された沖縄は,
1994年1月の731部隊展でこの事実を知らされ
2重に裏切られたと大きなショックを
受けたと報道されています。
又米国本土に対する細菌特攻作戦も計画されました。
「PX作戦」と呼ばれ陸海軍合同プロジェクトでした。
水上飛行機2機を搭載する水中空母と言う大型潜水艦を使用し,
米国の海岸で飛行機からペスト、コレラを散布し,
乗組員も細菌を抱えて上陸すると言うものでした。
しかし細菌が足りなかった事と
梅津美治郎参謀総長の反対で実現しませんでした。
この内容は次の項目にも書きます。
● サンケイ新聞
1977.8.14(梅津美治郎参謀総長の反対の内容)
細菌を戦争に使えばそれは日米戦という次元のものから,
人類対細菌といった果てしない戦いになる。
人道的にも世界の冷笑を受けるだけだ・・・
そして細菌戦そのものが中止となるのです。
● 1945年1月8日
大臣の決裁 ホ号作戦はやらぬ(大塚備忘録)
ここで長かった細菌戦は中止となりました。
戦後細菌戦に関する資料をすべて押収、
独占したアメリカの科学者の次のような言葉があります。
「科学者としては,やりたい研究や実験は山ほどある。
しかし道徳や良心がある為にどうしても出来ない事がある。
しかし日本軍はその出来ない事をやってくれた。
その大変貴重な資料は絶対他国には渡せなかった..」
私たちの日常生活で使われる言葉に、
「悪法も法である」「上の命令だ」
「国の為会社の為」「皆で渡れば怖くない」
と言うような言葉があります。
そこには個人の自立した道徳観,良心はありません。
戦争や事件が起こったその場になってからでは
道徳や良心は力がないかも知れません。
そうならないように政治や社会や環境や教育に,
自立した道徳や良心をもって日常の思考と行動をする。
この積み重ねが社会の悪化を防ぐ一つの方法だと思います。
●最後に旧西ドイツのヴァイゼッカ-大統領の1985年敗戦記念日の演説より
過去の事実をなかったことにするわけにはいきません。
過去を見ようとしない人の眼には, 現在も見えなくなります。
非人道的な行為を心に刻もうとしない人は,
そうした危険をおかしやすいのです。
人間はなにをしかねないのか・・・・
これを私たちは自らの歴史から学びます。