地域別・台湾、海南島
台湾で最も古い日本軍慰安所の記録は
1937年12月です。
これは大本営が計画した
広東上陸作戦を中止したため、
準備した部隊を台湾に上陸させたので、
あわてて慰安所を作ったといわれています。
● 「ああ戦友 台湾歩兵第連隊第1連隊第1中隊史」
小野茂正 編
(上海の)激しい戦闘の後で女に飢えており、
暴行、強姦、殺人などヘイチャラ・・・・
当局は一策として駐留予定地域の多くの農家を
一夜のうちに明け渡すように命令し、
大工が徹夜作業で翌日は急ごしらえの
お粗末な慰安所が出来上がった。・・・・
女は新竹州、台中州、高雄州の
大勢の商売女を急遽半強制的に狩り集めた
内地人、朝鮮人、台湾人の女たちであった・・・・
その後は台湾内よりも、
中国や南方に慰安婦が送り出されていきました。
当時、台湾は朝鮮と同じように
日本の植民地だったため、
東南アジア等国外に徴集・連行された例が多いのですが、
台湾現地の日本軍駐屯地で強姦にあった例も沢山あります。
資料の重複を防ぐため
国の関与に関してはここでは述べませんが、
「軍の要請に基いて台湾総督府が
必要人数を州知事、庁長に割り当て、
郡守、警察署長が業者の選定にあたり、
業者に女性たちを集めさせ・・・・」
という事は朝鮮の場合と同じだと思われます。
人数については確実ではありませんが、
日本政府の調査資料
(女性のためのアジア平和国民基金、1997年)では、
1938年11月から1940年1月までで260人となっています。
これは最低の人数でしょう。
注:260人が働かされた場所は
上海9名、残りは華南です。
わずか1年2ケ月の集計です。
それ以降の南方への
戦線 拡大を考えると、
10倍以上と考えられます。
台湾の民間団体が1992年に調査した記録があります。
● 台北市婦女救援社会福祉事業基金会の
1992末までの調査で、
確実に慰安婦だったことが
証明されたのは48名です。
注:同会が1999年に出版した
「台湾慰安婦報告」では
生存者51名になっています。
◎どのような経緯で慰安婦になったか
騙された者 22名
(食堂のウェイトレス、
酌婦、看護婦、洗濯、炊事)
強制連行された者 10名
役場からの割当て 5名
承知して応募した者 3名
◎年齢は
16~20歳 24名
21~25歳 16名
以下省略
◎慰安婦として集められた時期
1938~1939年 5名
1940~1941年 7名
1942~1943年 28名
1943~1945年 6名
不明 2名
◎働かされた場所(重複あり)
海南島 14名
インドネシア 12名
フィリピン 8名
ビルマ 8名
広東省 8名
シンガポ-ル 4名
他 3名
この調査は台湾人女性(中国人)対象の調査で、
原住民女性は含まれていませんが、
1996年には原住民女性への調査も実施され、
16人が名乗りを上げました。
2002年現在の調査では
1,200人以上が慰安婦にされたという
記録になっています。
注:2002年5月、平壌でのシンポジウムで
王清峰さんの報告)
台湾でも国会(立法院)で
日本の参議院に提出された法案を
支持する声明が全会一致でなされました。
● 「慰安婦」問題の早期解決を求めた台湾立法院決議
200年10月8日(全会一致)
1. 第二次世界大戦中、日本は
その植民地と占領区で
欺瞞や誘拐などの方法で無数の女性を招集し、
強制的に従軍慰安婦にして、
軍隊に性的サ-ビスを提供させた。
日本政府はこの事実を認めたが、
繰り返し無数の女性の名誉と尊厳を傷つけ、
日本政府の名で謝罪と補償を拒否し、
被害者に一生癒せぬ障害を蒙らせた。
2. 日本政府はいまだにサンフランシスコ条約と
戦後の2国間平和条約で
すでに補償問題を解決したとし、
非公式な「アジア女性平和国民基金」を通じて
元慰安婦にささやかな慰撫を与えることに止まった。
今年5月に・・・・業務は締め切ったが、
台湾人元慰安婦と一部の韓国籍元慰安婦が
まだその慰撫金を受領しておらず、
この問題を解決するには
日本の国会に提出している法案を通過させるしかない。
以下省略
3. 元慰安婦の生存者は
すでに7~80歳の高齢で、
ともに生きている間に補償問題が解決でき、
その人権が真に尊重されることを希望している。
以下省略
[地域別・海南島]
1939年に日本は海南島を占領しますが、
3ケ月後には慰安所の設置が始まりました。
設置に関しては、
陸軍省、海軍省、外務省で計画を進めますが、
実際には台湾総督府を通じて、
海南島に進出した台湾拓殖(株)に
慰安所設置と慰安婦の徴集を依頼しました。
このことは前のほうで詳しく述べました。
西野瑠美子氏の1997年までの調査では、
慰安所の数は62ケ所、
人数は最低でも1,300人以上が確認されています。
海南島の南側、三亜市にあった
慰安所のことが少しわかっています。
地元の老人の話では、
三亜市の、三亜、崖城、楡林の3角地区に
10数件の慰安所があったといわれています。
地区と名前は一致しませんが、
将校用の「華南荘」、兵隊用の「崖泉荘」にそれぞれ30人ほど。
工兵隊用の「中島慰安所」、将校用の「桃荘」、
兵站陽の「海荘」「南恩光慰安所」「欧家園」
・・・・の名前が証言で出てきます。
● 原住民、黎族の黄有良さん
1926年生れ 証言
15歳のある日田圃から家に帰る途中、
7~8人の日本兵が後ろから追いかけてきて
私を止め、その場で私の服を脱がしました。
私は抵抗し、助けを求めましたが、
皆日本軍が恐く助けに来てくれる人はいませんでした。
その場で2人の日本兵が私を犯しました。
その時から彼らは時々家に来て、
両親がいるかいないかも、夜も昼も構わず、
家の中でも外でも、欲しいままに私を強姦しました。
時には村人の家に逃げ隠れしましたが、
私がいないと両親を殴るので
耐えられず家に戻ったこともあります。
その後彼らは私を兵舎で働くようにしました。
仕事は炊事と洗濯でした。
それに彼等は好きなように私を陵辱しました。
その兵舎には私と同じ様な女性が他に11人いました。
4年目になった時、
トラックで藤橋という町に連れて行かれ、
同じ様な事をさせられました。
そこにいた10数名の女性は皆歳の若い娘でした。
ある女の子は3~4人の日本兵に
慰安所の中で輪姦されて大出血しました。
それを見てとても恐かったです。