中曽根元総理資料
中曽根康弘氏は以前から
「私は海軍の慰安所を作った」と言っていました。
その資料です。
● 元総理大臣中曽根康弘氏と慰安所
中曽根元総理は
「23歳で3000人の総指揮官」という
回想録の中で次のように述べています。
◎・・・・3000人からの大部隊だ。
やがて、原住民の女を襲うものや
バクチにふけるものが出てきた。
そんなかれらのために、私は苦心して、
慰安所をつくってやったこともある。
かれらは、ちょうど、
たらいのなかにひしめくイモであった。
卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。
そして私自身、そのイモの一つとして、
ゴシゴシともまれてきたのである。
● 高知市にある平和資料館・草の家のメンバ-が
防衛省防衛研究所戦史研究センタ-で
中曽根氏の関連資料を発見し
2013年10月27日に発表しました。
その資料を見てみます。
「航空基地第二設営班資料」
資料は合計26枚です
内容 表紙
報告書
メモ
地図
作成者 工営長 宮地米三
第二設営班 矢部部隊
1. 編成
隊長 海軍技師 矢部雅士
工営長 海軍技師 宮地米三
軍区長 海軍軍医大尉 平敏郎
主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘
通信長 海軍兵曹長 宮西
職員 亀本技手始め別記の通り
徴用工員 約2,300名(注:強制連行です)
兵員 看護兵曹、主計兵曹、通信兵等約40名
5. 設営後の状況
・・・・蘭印作戦が始まると、
工員連中ゆるみが出た風で、
又日本出航の際、
約2ケ月の旨申し渡しありしため帰心矢の如く、
気荒くなり、日本人同士けんか等起るようになる。
主計長(注:中曽根)の取計で
土人女を集め慰安所を開設、
気持の緩和に非常に効果ありたり・・・・
また、資料に付けられたメモにも慰安所の言葉が出てきます。
1. 1942年3月11日のメモ
10日に設営班全員第102海軍建設部に配属さる
慰安所(設営班)開設
これ以外のメモや地図にも慰安所の言葉が出てきます。