陸軍登戸研究所
日本陸軍には陸軍技術本部と
陸軍科学研究所と言う研究機関がありました。
1937年11月に淀橋区(現新宿区)戸山ケ原にあった
陸軍科学研究所の一部を
現在の川崎市多摩区生田に移転した事から
登戸研究所はスタ-トしました。
1941年には組織が整備され
陸軍技術本部に新たに7つの研究所ができ、
登戸研究所は陸軍技術本部第9研究所となりました。
注:陸軍だけではなく海軍も
特殊研究をしていました。
神奈川県平塚にあった
海軍技術研究所化学実験部で
布とゴムを使った風船爆弾を作りましたが
実用化はされませんでした。
(元工員志村泰一氏の手記から)
今回のテ-マとは少し外れるかもしれませんが、
南京の栄1644部隊と協力して
生体実験を行っていますので、
関連として少し書いてみます。
登戸研究所は陸軍に沢山ある
研究分野の中でも特に公には出来ない特殊研究
つまり謀略・秘密戦の研究を担当していました。
[組織] 第2科員、伴繁雄の記憶による
所長 篠田鐐中将 工学博士
第1科 科長 草葉季喜少将
庶務班 中本少尉
第1班 武田輝彦少佐
風船爆弾、宣伝用自動車
第2班 高野泰秋少佐
特殊無線機、ラジオゾンデ
第3班 笹田助三郎技師
怪力電波、殺人光宣
第4班 大槻俊朗少佐 人工雷
第2科 科長 山田桜大佐 工学博士
庶務班 瀧脇重信大尉
第1班 伴繁雄少佐
科学的秘密通信法、防諜器材、謀略兵器、
憲兵科学装備器材、遊撃部隊兵器、ほか
第2班 村上忠雄少佐
毒物合成、え号剤
第3班 土方博少佐
毒物謀略兵器、耐水・耐風マッチほか
第4班 黒田朝太郎中尉
対動物謀略兵器ほか
第5班 丸山政雄少佐
諜者用カメラ、超縮写法、複写装置ほか
第6班 池田義夫少佐
対植物謀略兵器ほか
第7班 久葉昇少佐
対動物謀略兵器ほか
第3科 科長 山本憲蔵大佐
北方班 伊藤覚太郎技師
用紙製造ほか
中央班 岡田正敬少佐
分析、鑑識、印刷インキ
南方班 川原廣眞少佐
製版、印刷
第4科 科長 畑尾正央大佐
第1科、第2科研究品の製造、補給、指導
夏目五十男少佐
組織一覧表には仕事の内容が書いてありますが、
実際にどのような研究をしていたのか拾い出して見ます。
研究内容を大きくまとめると下記のようになります。
科や班別には判りませんので全体としての内容です。
◎電波兵器並びに風船爆弾に関する研究
◎防諜、諜報、謀略兵器、器材に関する研究
◎経済謀略(主として贋造紙幣)の研究と印刷製造
もう少し具体的な研究内容は。
●「ち」号研究
極超短波を利用した高性能レ-ダ-の開発
佐竹金次大尉、松平頼明技師、幾島英技手
●「く」号研究
電波による破壊殺傷兵器の研究
松山直樹大尉、笹田助三郎技師、山田原蔵技手
注:元工員和田一夫の話から
「巨大真空管から電波を引き出し敵を殺傷する。
実験ではネズミの殺傷には成功した」
●大型真空管製作研究
曽根有技手、宇津木寅三技手
●雷の研究
雷の現象を兵器に利用する研究
村岡勝大尉、大槻俊郎技師
●「ふ」号研究
風船爆弾による米本土攻撃研究と実施
風船爆弾は和紙をこんにゃく糊で貼り合わせ、
直径10メ-トルもの風船を作り、
水素を充填し、風船の下に爆弾を吊るした兵器です。
1944年秋から製造開始し、太平洋側の3基地から
約9300個を偏西風に乗せてアメリカに向けて飛ばしました。
約300個がアメリカに届き6人が死亡したと言われています。
1945年3月には製造中止になりました。
製造は劇場のように屋根の高い建物が選ばれ、
全国の20都道府県にまたがり、
現場の作業には20万人以上の
女子学生が動員されたといわれています。
東京では東京宝塚劇場、旧国技館、
日本劇場、国際劇場が工場だったといわれています。
注:風船爆弾は海軍でも第四科研究室で開発していました。
試作品のテストは
1943年11月に小田原の酒匂川でおこなわれました。
2回目の実験は千葉県の一宮海岸、3回目は大分で行われ、
1944年4月には中国・青島で行われました。
海軍の実験デ-タ-は全て陸軍に提供されてとなっています。
*殺傷謀略器材(爆破及び殺傷器材)
パテ状の新爆薬 偽装爆薬(缶詰型、レンガ型、石炭型、チュ-ブ型、トランク型、
梱包箱型、帯型、磁石型・・・) 汽車、電車、自動車の運行を妨害する各種妨害用具
*放火謀略器材 証拠を残さずに放火する器材 (石鹸型焼夷剤、撒布型焼夷缶、自然発火性焼夷剤・・・)
殺傷器材 特殊拳銃 万年筆型、ステッキ型、・・・
●毒物生物兵器の研究
毒草系薬物 トリカブト、毒ニンジン、ニコチン・・・
毒蛇系薬物 ハブ、ガラガラ蛇、コブラ、アマガサ蛇・・・・
魚毒系薬物 フグ・・・・
無機系毒物 アヒサン、ダリウム、シアン化合物、
塩素ガス、一酸化炭素・・・・
有機系毒物 ホスゲン、イペリット、マスタ-ドガス、
アセトン・シアン・ヒドリン
●偽札製造
1938年に陸軍省参謀本部は
対支経済謀略実施計画を作成し
「杉工作」と称して偽札を大量に生産しました。
作られた偽札は敗戦までに約40億円が印刷され、
中国で流通したのは25億円と言われています。
細菌戦部隊とは直接関係はありませんが、
参考までに偽札製造の陸軍の実施要領を書いておきます。
◎実施要領
1. 本工作の秘匿名を「杉工作」と称し、
偽札の製作は登戸研究所において担当し、
必要に応じ大臣の許可を得て
民間工場の全部または
一部を利用することができる。
2. 登戸研究所において製作する
謀略資材に関する命令は、
陸軍省および参謀本部担当者において協議の上、
直接登戸研究所長に伝達するものとする。
3. 支那における本謀略の実施機関を
松機関と称し、本部を上海に置き、
支部又は出張所を対敵の要衝地域
並びに情報収集に適したる地点に置くことが出来る。
注:松機関(機関長岡田少佐)はアヘンの密売工作をしていた。
その実務は阪田誠盛が仕切り、阪田機関と呼ばれた
更に里見甫に引き継がれます
4. 5. 6. 省略
7. 「松機関」は機関の経費として
送付した法幣の2割を自由に使用することが出来る。
注:法幣は中国重慶政府の通貨で
日本では主としてこの偽札を作った
そこでいよいよ南京の細菌戦部隊
栄1644部隊との共同作業です。
元登戸研究所所員の和田一夫氏の回顧録からです。
●悪魔の人体実験
1941年6月上旬、参謀本部の命令により
第2科長畑尾正央中佐(後、大佐)を長として
伴繁雄技師(後、少佐)、土方博技師(後、少佐)と
研究者、技術者計6名は
研究所が開発した各種毒物の人体実験を行うため
中国南京に出張した。
この実験は前もって篠田研究所長が
関東軍防疫給水部(関東軍731部隊)の
石井四郎少将(後、中将)に協力を依頼しその結果、
実験所を南京防疫給水部(秘匿名栄1644部隊・通称多摩部隊)とし、
実験期間は約1週間、
実験者は同防疫給水部軍医とし、登戸研究所員が立会い、
実験対象は中国人捕虜または
一般死刑囚役15~16名(30名との説もある)とすることで
合意を得ていた。
6月17日、登戸研究所員は長崎港を出発、
海路上海を経て南京に到着した。
この実験について伴技師は、
自著「陸軍登戸研究所の真実」の中で、
次のように書いています。
青酸ニトリ-ルを中心に、
致死量の決定、症状の観察、青酸カリとの比較などを、
経口と注射の2方法で実施したこと、
実験結果は予想した通りであったことを述べている。
注射が最もよく効果を現し、
皮下注射の良かったことも分かった。
青酸ニトリ-ルの致死量は
大体1ccで、2~3分で微効が現れ、30分で完全に死に至った。
しかし体質・性別・年令などにより死亡までに
2,3時間から10数時間を要した例もあり、
時間の特定は出来なかった。
この実験について毎日新聞1981年12月23日付は、
この実験に参加した元登戸研究所職員
6人の告白として次の記事を掲載しました。
●毎日新聞の記事から
1644部隊の人体実験は、
旧陸軍第9研究所(登戸研究所、川崎市)の技術将校など
7人が、昭和16年同部隊に派遣され、
各種青酸性毒物やヘビ毒、炭疽菌などの細菌と
手に入る毒物のすべてを使って
中国人捕虜約30人を対象に死ぬまで実験を繰り返した。
実験には同部隊の軍医2人も加わり
「日本人の医者だ、薬で身体を治してやる」と騙したと言う。
実験の模様は「密室内で捕虜を椅子に縛りつけ、
青酸ガスを吸わせた」
「ベットに寝かせた捕虜に液体の青酸を注射するなど行った。
捕虜は瞬間に痙攣を起こし、
グッタリしたが完全死には数分かかった」
また伴少佐は、戦後世間を騒がせた
「帝銀椎名町支店の毒殺事件」に関連し、
1948年4月26日付け警視庁捜査第1課
甲斐係長の捜査手記第5巻に先述の証言のほか、
1941年5月22日から南京病院(多摩部隊本部)で
佐藤少佐の指揮で人体実験をしたことを証言している。
はじめは嫌であったが慣れると一つの趣味になった。
注射は万年筆型でキャップを取ると針がでる。
その針で着物の上から刺すような仕組みになっている。
これは主としてハブの毒で、
一呼吸で倒れる(針を抜かない内に倒れる)
死体はすぐに解剖して研究の材料にした。・・・・・
敗戦時に陸軍省軍事課出した通達で
全てが闇に葬り去られました。
●陸軍省特殊研究処理要領 原文カナ
「方針」
敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究は全て
証拠を隠滅する如く至急処置す
「実施要領」
ふ号及び登戸関係は兵本(注:兵器行政本部)、
草刈中佐に要旨を伝達し直ちに処置す
15日3時30分
以下省略