莫大な予算と部隊の整備
[ 莫大な予算 ]
1936年の予算は人件費に300万、
各支部に20万から30万、
実験研究費600万~1000万円以上。
当時としては非常に莫大なものでした。
当時石井が単に中佐だったことを思うと、
異例中の異例だったことが分かります。
貧乏だった軍部の予算を考えると
国家の権力中枢が特別の予算を許可したと思われます。
天皇の軍令によって実験開始や再編成がされたことを
考えると天皇が直接予算を決めた可能性もあります。
●梶塚隆二元関東軍軍医部長の証言
ハバロフスク裁判の尋問書から 1949年10月23日
第731部隊は1936年の天皇裕仁の軍令により編成されました。・・・・
この軍令は複写され全将校に示すため
日本軍の全部隊に配布されました。
私は部隊定員表を添えた軍令を閲覧して
これに捺印しました。・・・・
部隊の配置に関する事項は、
関東軍司令部が自らこれを決定しました。
部隊は1941年まで番号がなく、
関東軍防疫給水部又は石井部隊とよばれていました。・・・・
部隊は1941年関東軍司令官の命令により
第731なる番号が付与されました。
[ 防疫給水部隊の整備 ]
それまで給水業務は軍の経理部が担当していましたが、
1938年7月29日の「軍令陸甲第50号」によって
軍医部の担当になりました。
同時に同日18個の師団防疫給水部が編成され、
中国にいた各師団に派遣されました。
師団所属の防疫給水部隊は師団と共に戦地を移動します。
しかしその時点で師団防疫給水部とは
別に師団を束ねた軍の固定給水部が既に2つあり、
それが満洲ハルビンと北京にあった石井四郎の部隊です。
その固定部隊つまり石井部隊は
翌年にかけて南京と広東にも追加設置されました。
●石井機関の講演会
「支那事変に新設せられたる陸軍防疫給水機関運用の効果と
将来戦に対する方針並に予防接種の効果に就いて」」
1940年3月 報告2部通称99号 から
・・・・北支には石井大佐が事変勃発当初、
支那側細菌工作の中心たりし、
北京天壇中央防疫所を占拠して始め、
現陸軍軍医学校教官菊池大佐を長とする
北支那防疫給水部を、
中支那南京中央病院には
昭和14年5月中支那防疫給水部を、
南支那には同年同月広東中山大学内に
田中巌大佐を長とする南支那防疫給水部が新設さられ、
各々支部、出張所を有して居ります。
1940年(昭和15年)7月には、
部隊名に給水を入れて「関東軍防疫給水部」となり、
この頃から暗号名として「満州第731部隊」と言う
呼び方がされるようになりました。
●年号を分かり易く整理してみます。
1932(昭和7)年8月
陸軍軍医学校に防疫研究室設置
1933(昭和8)年
ハルビン近郊背陰河に関東軍防疫班設置、
名称加茂部隊、東郷部隊
細菌戦研究が軍医学校の正式課題に
1936(昭和11)年8月
関東軍防疫部、関東軍軍馬防疫廠編成
1938(昭和13)年1月26日
「特移扱ニ関スル件」通牒
1938(昭和13)6月30日
平房付近に特別軍事地域設定
1938(昭和13)年-39年
関東軍防疫給水部平房に本部移転、
名称東郷部隊
1939(昭和14年)5月-10月
ノモンハン事件で細菌攻撃実施
1939(昭和14年)
広東第8604部隊、南京第1644部隊編成
1940(昭和15)年5月-6月
寧波に細菌攻撃 (HPレポ-ト 細菌戦参考)
1940(昭和15)年8月1日
関東軍防疫給水部になる
1940(昭和15)年12月2日
牡丹江・林口・孫呉・ハイラル支部設置
1941(昭和16年)
常徳へ細菌攻撃 (HPレポ-ト 細菌戦参考)
1941(昭和16)年8月1日
名称第731部隊に、
関東軍軍馬防疫廠は第100部隊に
[ 731部隊の人数 ]
第731部隊を頂点とした細菌戦部隊には
一体どの位の人数がいたのか
現在でもはっきりとは分かりません。
参考になる数字をいくつかあげてみます。
●1940年時点の固定防疫給水部の陣容(人数)
上記石井機関の講演会同報告書より
固定機関名 | 将校(技師) | 下士官(技手) | 兵隊(雇員) | 合計 |
関東軍防疫給水部 | 220 | 386 | 1230 | 1836 |
北支那防疫給水部 | 104 | 196 | 510 | 810 |
中支那防疫給水部 | 120 | 264 | 895 | 1279 |
南支那防疫給水部 | 68 | 132 | 465 | 665 |
防疫研究室 | 16 | 属 22 | 雇 270 | 308 |
合計 | 528 | 1000 | 3370 | 4898 |
注:シンガポ-ルの南方軍防疫給水部は
1942年発足なのでまだ入っていません
●1982年4月に開かれた内閣委員会では
榊委員が軍人恩給に関連して、
731部隊について質問をしています。
援護局業務第1課長の森山説明員が答弁しています。
その内容を要約します。
昭和20年1月1日現在で外地にあった部隊の所属名簿から
将校 | 133 |
准士官、下士官、兵 | 1152 |
文官(技師、技手、属官) | 265 |
恩給公務員でない雇傭人 | 2009 |
●2003年9月、厚生労働省は川田悦子衆議院議員の
質問に対して第731部隊の人員を公開しました。
それによると1945年の敗戦直前で3560名が所属していました。
内訳
軍人は 1344名
役職 軍医、薬剤、技術、経理、衛生、歩兵、砲兵
軍属は 2208名
役職 技術、看護婦、通訳官、現場監督、防疫
不明 8名
[ 隊員の募集 ]
初代部隊長になった石井四郎は
母校(京都大学)の恩師、
木村廉、清野謙次等のル-トや自ら各大学を回って、
助教授クラスの優秀な医学者を集めました。
豊富な研究費、思うままの研究テーマ・・・・
エリ-ト意識と歯止めのない秘密研究でした。
目的は「医学報国」でした。