東南アジア・太平洋地域での毒ガス使用
アメリカによる日本の毒ガス調査
(日本軍が化学兵器あるいはガス兵器に訴える
意図を示す事件および証拠の調査)には
東南アジアや太平洋地域での使用例が書かれています。
季刊戦争責任研究第40号の吉見嘉明論文を参考にします。
●マレ-
日本軍は青酸手投弾・催涙ガス手投弾を携行している。
●ビルマ
1.赤筒を捕獲
2.戦車に対する手投弾(青酸)の使用(2回)
●南西太平洋
1)1942年12月25日、ニュ-ギニアのSapetoで、
日本軍が催涙ガス筒・嘔吐性ガス筒を放棄。
2)1943年2月6日、ガダルカナル島で青酸ガス手投弾を捕獲
3)同年2月8日、ガダルカナル島で青酸ガス手投弾を捕獲
4)同年1月23日・28日、包囲された日本軍部隊がガスを使用
5)1942年10月28日、ニュ-ギニアで捕獲された
第144連隊第7中隊記録には、
発炎筒を使い果たしたとの記述あり。
6)ブナで捕獲した捕虜の供述によれば、
サイパンでガスマスクを置いてくるよう命令された、という。
7)ブナで捕獲した別の捕虜の供述では、
ラバウルでガスマスクを置いてくるよう命令された、という。
8)ポ-トモレスビ-で捕獲した捕虜の供述によれば、
あか筒・ガス手投弾などを
ポ-トモレスビ-攻撃のために携行した、という。
9)ブナで捕獲した捕虜の供述によれば、
攻撃用の毒ガス訓練は受けなかった、という。
10)ブナで捕獲したルースリ-フは、
ガス手投弾が携行されていることを示している。
11)Kokodaで捕獲した捕虜の供述によれば、
ラバウルでガスマスクを置いてくるよう命じられたため、
だれもガスマスクをもっていない、という。
日本軍は1944年7月14日に
毒ガス使用を中止する命令を出していますが、
孤立して小さな部隊はその後も使用を続けています。
ニュ-ギニア北部のビアク島の山中で孤立した部隊です。
●ビアク島における日本軍の嘔吐性ガス
使用説に関する総括報告 1945年4月25日
アメリカ陸軍兵站司令部主任化学将校ジョン・リディック中佐
1945年3月6日夜8時、日本兵が99式あか筒を2本使用した。
第579対空警報中隊の5名の兵士が嘔吐した。
中隊全体に頭痛と眼・咽喉の軽いヒリヒリ感を訴えるものが生じた。
急襲であったため、ガスマスク装着が間に合わず、
その防護効果はなかった。
翌3月7日朝10時15分、フィルム・装備交換所で、
あか筒2本が使用された。
附近の兵士が頭痛とノド・鼻の痛みを訴えた。
ガスマスクの使用は効果があった。