マレ-半島の華人虐殺
シンガポ-ルの華人粛清に前後して
マレ-半島各地でも粛清が行なわれました。
シンガポ-ルで粛清が行なわれていた1942年2月21日、
南方軍(総司令官寺内寿一大将)の命を受けた
第25軍は各師団にマラヤ全域の
治安粛清を明示、地域分担を決めました。
◎第18師団(久留米 師団長 牟田口廉也中将) ジョホ-ル州
◎第5師団(広島 師団長 松井太久郎中将) ジョホ-ル州及び昭南島を除くマレ-全域
◎近衛師団(師団長 西村琢磨中将) シンガポ-ル市を除く昭南島
そして広島の第5師団は
司令部をクアラルンプ-ルに置き、
4つの歩兵連隊その他を各地区に配備しました。
◎北警備隊
歩兵第21連隊(浜田 連隊長 原田憲義大佐)
ペラ、ケダ、ケランタン、トレンガス、ペナン、ペルリス
歩兵第42連隊(山口 連隊長 安藤忠雄大佐)
同上地区
◎西警備隊
歩兵第41連隊(福山 連隊長 岡部貫一大佐)
セランゴ-ル
◎東警備隊
捜索第5連隊(連隊長 佐伯静夫中佐)
バハン
◎南警備隊
歩兵第11連隊(広島 連隊長 渡辺綱彦大佐)
ネグリセンビラン、マラッカ
その時点で第5師団は次の命令を出しています。
●2月25日の第5師団命令 原文カナ
・・・・師団はジョホ-ル州及び昭南島を除く
馬来(マレ-)全域の迅速なる粛清に任ず・・・・
粛清の重点は散逸兵器の収集と
敗残兵及び敵性華僑の徹底的摘発による之が討伐に置き、
その期間は約1ケ月をもって完了する・・・・
南警備隊 歩兵第11連隊(広島 連隊長 渡辺綱彦大佐)が
担当したネグリセンビラン州で多くの事件が起こりました。
●南警備隊命令
ネグリセンビランの迅速なる治安粛清をなすべし・・・・
この命令により、
1942年3月3日から3月25日まで6回にわたって
粛清作戦が行なわれました。
敵性又は抗日とみなされた華僑は、
女性や子供の区別なくすべて刺殺されました。
村人が丸ごと殺され、
火がつけられ、廃墟になった村もあります。
歩兵第11連隊の中隊陣中日誌が残されています。
注:陣中日誌 個人的な日記や日誌ではなく、
陸軍が定めた作戦要務令にもとづいて
記録する事を義務付けられた公文書。
1部は大本営に提出し、1部は部隊で保管された。
これとは別に作戦の内容を細かく記録した「戦闘詳報」も公文書である。
●歩兵第11連隊の中隊陣中日誌
・・・・セレンバン~タムピン道両側山地一帯には
武器を有する多数の共産匪(華僑をもって組織する)あるものの如く・・・・
連隊は 明3日払暁より徹底的にこれを捕捉殲滅せしむとす・・・・
鉄道路線及び道路の両側500メ-トル以外の
支那人及び英国人は老若男女を問わず徹底的に掃蕩す・・・・
数百人規模の虐殺を行なった
*3月4日 スリメナンティで「本日不偵分子刺殺55名・・・・」
*3月5日 メルタンで「不偵分子60名刺殺す」
*3月6日 ピラ-テンガで「不偵分子13名刺殺せり」
この中隊の陣中日誌にはこのような記述が
延々と続き3月だけで584人を刺殺したと書かれています。
たった1つの中隊だけです。
現地にある慰霊碑等の記録から大きな虐殺を見てみます。
●3月16日
パリッティンギ村で約675人の村民が皆殺しにされた。
大人426人、子供249人
●3月18日
ティティの近くの約200戸位の村に火を放って全滅させた。
死亡者は1,000人以上といわれている。
村の慰霊碑には1474人と書かれている
林博史氏の調査では、ネグリセンビラン州だけで
3,000人以上が殺されたとなっていますし、
現地の華僑団体の調査では4,000~4,500とされています。
第5師団が担当したセランゴ-ル州(ネグリセンビラン州の隣)での、
1942年3月6日たった1日だけの粛清した表があります。
しかも西警備隊(歩兵第41連隊 福山)の分だけです。
●3月6日の一斉捜査の結果 西警備隊「日本軍情報報告」
1942年3月8日付
逮捕の理由 | 逮捕数 | 処刑数 |
日本軍に抵抗した者 スパイ容疑者、武器や破壊的文献の所持者 逃亡を企てた者 盗品の所持者 共産党員と侵入者 中国旗、反日写真、親英品の所持者 旅館宿泊人とその従者 教師 平和回復社会の革新的敵同調者 敵の貨幣、有価証券の保持者 他の容疑者(ギャングを含む) | 14 53 465 8 157 416 83 5 3 38 567 | 14 22 30 3 12 46 25 5 3 33 84 |
合 計 | 1813 | 237 |
注:言いがかりのような軽い理由で、
たった1日で237人が殺されています。
2月20日頃の粛清開始から1ケ月ほどで
南警備隊(広島歩兵第11連隊)は新たな命令を出しています。
大都市では村のように無差別虐殺はやりにくかったので、
敵性容疑者を検挙し判断する規準作りをする意味と、
粛清の仕上げをする意味があったようです。
●南警備隊命令 1942年3月22日 (読みやすくしてあります)
「別冊検索計画」
(1)方針 省略 基本的な方針が書かれています
(2)表題なし 省略 事前準備、打ち合わせ等が書かれています
(3)検索検挙実施要綱
1 各隊は25日7時を期し一斉検挙を開始し
概ね18時を以って終了するものとす・・・・
2 家宅捜査は民族の如何を問わず、
又安居証を所持すると否とに拘わらず行い、
老若男女を問わず、又治安維持会員或いは皇国各機関において
使用中の者といえども容赦せざるものとす
注: 日本軍に協力した者でも粛清の対象にしたのです
3 省略 没収する兵器、道具、証拠品等が書かれています
4 敵性容疑者として判定基準左の如し
イ 検索或いは検挙に際し反抗し又は態度不遜なる者
ロ 第3項記述の物品(上記3 省略分)を所持する者
(家屋内に置きあるものも含む)
ハ 検索間逃亡を企てる者、及び
家宅捜査済みの家に未済家屋住居者で入りたる者
ニ 敵性分子共産党の疑いある者
ホ マレ-作戦開始以降の新来者、並びに無頼漢
ヘ 教員
ト その他特に疑わしき者
(4)調査 省略
(5)処断
イ 左記の者は処断す(注:殺害する事です)
1 敵性分子共産党員たること明らかな者
2 態度終始不遜なる者
3 本人の存在は社会の秩序を乱すと判定せられし者
以下省略
「残された追悼碑と被害者の証言」
第18師団(久留米・師団長牟田口廉也中将)が担当したのは
シンガポ-ルにもっと近いジョホ-ル州でした。
マレ-半島の中では最も多数の住民が
虐殺されたといわれていますが、
裁判では起訴されずよく分かっていません。
ジョホ-ル州には1994年現在14ケ所の追悼碑が確認されています。
その追悼碑のいくつかを見てみます。
●コタティンギの追悼碑
1942年2月26日から3日間の虐殺 犠牲者3,100人以上
●メルシンの追悼碑
1942年2月29日から3日間の虐殺 犠牲者約500人
●カンポンポクの追悼碑
1942年3月4日 犠牲者100人以上
●李柴琴さんの証言
日本兵60~70人位が自転車でやってきた。
彼等は銃剣を持っていた。
郭夫妻が彼らのために豚を焼いて宴会を開いてもてなした。
その後、身分証明書を発行するといわれ、住民が集められた。
町の通りは封鎖され、虐殺が始まった。・・・・
日本兵のために宴会を開いた郭夫妻の親族27名全員が殺害された。
その時1ケ月もたっていない赤ちゃんが
日本兵に放り投げられて、銃剣で刺されて殺された。
●ゲランパタの追悼碑
1942年3月5日 現地の人300人と
シンガポ-ルからの避難民200人が犠牲となった
●ロスコ-テ・エステ-トの追悼碑
1942年3月14日
16台のトラックで運ばれて約600人が犠牲に
●ウルチョ-22マイルの追悼碑
1942年3月9日
永成園(農場)と黄屋港で犠牲になった約200人
●ウルチョ-21マイルの追悼碑
1943年10月21日 虐殺の犠牲者約200人
●家族5人を殺害された盧礼さんの証言
・・・・10月20日、日本兵は男性を集めて穴を掘らせた。
その穴に葉、枝などを入れ、
その横に男性を立たせて銃剣で刺していった。・・・・
翌日の朝7時に今度は女性と子供を銃で殺害したらしい。
自分はその時、1300フィ-トはなれた林に隠れていた。
日本兵たちは村に放火し、その煙や火が見えた。
1時間くらいで村は焼けてしまった。
その後父親と一緒に被害の様子を見に帰った時には
すでに日本軍は去っていた。
犠牲者の遺体は見るに耐えないほど無残に焼け爛れていた。
●ウィルティラムの追悼碑
4回にわたる虐殺の犠牲者 100人以上
●父親を殺された陳桂さんの証言
・・・・100~200人の日本兵がやってきて住民を集めた。
自分の叔母は日本語が話せたので、
子供と女性は何も悪いことをしないから
釈放してくれるように頼んだ。
全ての男性は後ろ手に縛られ、
大きな池の方へ連れて行かれた。・・・・
男性は池の周りで機関銃をもった日本兵に撃たれ、
全員が殺された。・・・・
このようにマレ-半島では
ゲリラとか反日分子とみなされた者は
裁判なしの即決で殺されました。
まるで言いがかりをつけて殺害したのです。
そして首を街頭にさらし首にしたため、
武力で弾圧すればするほど反日感情は高まり、
ゲリラは活躍して戦後の独立に貢献していきました。
虐殺の理由として、
敵ゲリラとの交戦で止むを得ず
殺害したと主張する人がいます。
しかし虐殺を行なった2月から3月にかけて、
3つの部隊ではただの1人も戦死者や負傷者を出していません。
(注:残っている陣中日誌の範囲)
抗日ゲリラや何者かからの攻撃もありませんでした。
また、どの虐殺でもあまり銃弾を使っていません。
銃弾を使えば必ず陣中日誌に書かれるはずです。
またネグリセンビラン州の虐殺の被害者の2/3は女性と子供です。
こうしてみると、戦争と言う名を借りて、
罪もない、無抵抗で、武器を持たない住民を
言いがかりをつけて殺した事がよく分かると思います。
「恐怖の憲兵」
住民に対して恐怖心を植え付けた
日本のケンペイ(憲兵)と言う言葉は
今でも現地に恐怖の象徴として残っています。
憲兵に関する事をいくつか・・・・
●裁判なしの即決で殺す方法は、
満州国が出来てから「ゲリラやその同調者とみなした者は
裁判抜きで処刑してもよい」となっていま した。
華北でそれを実行した山下奉文はマ
レ-半島でもその手法を取り入れたのです。
●憲兵隊が行なった責めの数々
チン・オンの「マラヤ・アップサイド・ダウン」1946年
1 殴る、蹴る、ビンタ、柔道や柔術投げの連続
2 血を吐き失神するまで裸体にしてムチ打ち
3 逆さ吊り、または後手に縛って吊り上げる
4 「東京ワイン責め」
直腸へポンプで水を注入したり、
ホ-スの一方を水道の蛇口につけ、
もう一方を口に突っ込んで水を胃の中に入れる。
そして、水で膨らんだ腹の上に人が飛び乗る。すると水が目や耳や鼻や口から噴出す。
5 助けてくれと喚くまで手や足を焼く
6 熱湯を直腸に注射、又は手や足の爪を抜き取る
7 指や手足をかすがいで締め付ける
8 電気ショックをかける
9 石の上に数時間ひざまづかせる
このうち4種類以上の拷問に耐えて生き抜いた人はいない。
「辻正信」
マレ-半島の虐殺で実質的な陣頭指揮を取ったのは
参謀・辻正信です。
辻は東条英機の直系の弟子として非常に優遇されました。
戦後、イギリス軍は
「マレ-シア・シンガポ-ルの住民虐殺、
ビルマの捕虜を殺して食べた事件等」に関わったとして
辻を必死に捜します。
敗戦当日バンコックで姿を消した辻は、
ハノイ経由で中国に入り、
南京で「共産党対策の専門家」「戦後日中合作工作要人」
として蒋介石にかくまわれました。
南京では関東軍時代の経験を生かして
「厳冬作戦の参考」「情報収集計画」「防諜対策」等の仕事をしました。
その後GHQ(日本占領軍総司令部)の
G2(諜報機関)のエージェントとなり逮捕を免れています。
1949年イギリスは他の裁判が終了したため、
辻の逮捕を断念しました。
1950年に「潜行三千里」という本人の体験本が大ベストセラ-になりました。
そして衆議院議員にトップ当選、参議院議員に3位当選し、
議員のままラオスで行方不明になり現在に至っています。
このような人物を英雄視し議員にさせる
国民の意識には戦争に対する反省はありません。
「加害者と被害者の証言」
●西警備隊(歩兵第41連隊 福山)の元日本兵「C」氏の証言
クアラルンプ-ルの虐殺に着いて
・・・・刑務所から6台のトラックに400人近くの中国人を乗せた。
その中には女性も沢山いた。・・・・
兵士60名ほどがついていった。
ゴム林の中に約400人ほどを座らせたが扱いに困った。
顔を見れば日本人と同じようだし、
何故殺すのか理由が分からなかった。
「殺意が起きない」という心境だ。
若い将校の指揮官は困ったようだった。
しかし、指揮官は思い直したように
「ただいまより大元帥陛下の命により」と
声をはりあげて処刑命令を出した。
この「大元帥陛下の命」という言葉を聞いた時、
兵隊たちは直立不動の姿勢をとった。・・・・
C氏は目隠しする役を引き受けた。
目隠しをして穴のそばまで連れて来いと将校が命令した。
そしてまず将校が軍刀で3人の首を斬った。
何メ-トルも血が吹き出て、一気に生臭くなった。
それから兵士たちが、目隠しをして
穴のそばに後ろ向きで立たせたのを背後から銃剣で刺し、
穴に突き落としていった。
穴に落ちてもまだ生きている者は上からまた銃剣で刺した。
まだ生きている者もいたが土をかぶせて埋めた。
注:現地の殉難墓の説明書では、
刑務所の800人が惨死し、500人がこの地に捨てられた。
50~60人が生埋めにされた、となっています。
●歩兵第42連隊(山口)戦史より
たまたま軍司令官から
「共産匪とみられるシナ人を粛清せよ」という命令が来た。・・・・
しかし連隊はこの命令に抵抗した。
中でも丸谷少佐(第1大隊長丸谷順助)は
「罪もない良民までを共産匪の名目で
血まつりにしている部隊もあるが、
それでは治安を保つことはできない
良民からただ一人の犠牲者を出す事にも反対する」と
緒方師団長に直言して、これが入れられた。
注:このような良心的な(?)部隊もあったのです。
●プタスのブキットパヨン鄭生郎ゴム園の鄭さん
このゴム園では300人近くが殺され、
2/3は女性と子供だった
1人の日本兵が母親が抱いていた赤ん坊を取り上げ、
空中に放り投げ、もう1人の日本兵が銃剣で刺した。
そして足で弟を踏みつけて銃剣を引き抜いた。
それから日本兵は座っていた人たちを
背後から次々と銃剣で刺していった。・・・
銃剣は左後方から刺され、背中の左上から入って胸まで貫いた。
倒れたところで左脇あたりを2回刺され気を失った。
しばらくして気がついた。
日本兵がゴムの葉で死体を覆っていた。
隣にいた弟も4ケ所に傷があり血だらけだったが生きていた。
母親に触ってみたが動かなかった。
放り投げられて刺された赤ん坊は
内臓がはみ出していたがまだ生きていた。・・・・
「マレ-半島の5000万円強制献金」
一応の華人粛清が終わると、
日本軍は5000万円の献金を華僑に要求しました。
現在の価値に直すと数千億円から数兆円と思われる高額で、
当時マラヤに流通していた通貨総量の23%にもなります。
華僑はその金額をわずか3ケ月で集めるよう要求されました。
結局全額は集まらず、
不足の分2200万円は日本の横浜正金銀行から借り、
5000万円の小切手が山下奉文司令官に奉呈されたのです。
武力を背景にし、しかも華人虐殺とセットですから
かなりの恐怖心を持って全財産を提供したものと思われます。
注: 資料によって5000万円と5000万ドルとあります。
円と海峡ドルは1:1でしたから同じです。
●第25軍軍政部長の極秘通達 1942年4月19日
篠崎護「シンガポ-ル占領秘録」から
服従を誓い協力を惜しまざる者に対しては、
その生業を奪わず権益を認め、
然らざる者に対しては、断固その生存を認めざるものとす
●第1期作戦終了直後に於ける対処要綱
1 軍費並びに統治資金の調達命令
マラヤ全域の華僑に対して最低5,000万円の調達を命ずる
2 日本の南方経営に全面的協力を誓わせる
3 処断の峻厳を期す
協力に参加せられぬ者に対しては極めて峻厳なす処断をもって処理す
即ち財産の没収、一族の追放、
反抗の徒に対しては極刑をもって・・・・
シンガポ-ルとマレ-シアの虐殺については、
戦後私たちはほとんど知りませんでした。
日本政府だけでなく地元政府も調査に積極的ではなかったからです。
それはアジアの国々は荒廃した国土を復興するために日本からの資金が必要で、
その為に日本に対する追求を我慢したからです。
1960年代に入って、シンガポ-ルの建設工事現場から
まとまった遺骨が次々と発見されてから
賠償運動が広がってきたのです。
1967年、日本政府はマレ-シア・シンガポ-ル両政府と
血債協定(賠償に準ずる協定)を結びました。
マレ-シアに対しては約29億4000万円で、
内容は現物支給で貨物船2隻、
シンガポ-ルには造船所、通信基地の建物、
機械類で同額の29億4000万円です。
被害者や遺族には何の補償もされませんでした。
「原爆展とマレ-シア」
何年か前に広島の人たちが現地で
原爆の悲惨さを訴える原爆展を開き、
かなりの反発を浴びました。
「原爆のおかげで虐殺が停まった」の声がありました。
広島の人は郷土の師団が虐殺をしたことを知らなかったのです。