ベトナム、200万人の餓死
ベトナムは日本では仏印と呼ばれていました。
当時のベトナムはフランスの植民地で、
トンキン(東京・北部)、アンナン(安南・中部)、
コ-チシナ(交趾支那・南部)の3つに分かれていました。
フランスはこの他にはカンボジアとラオスを支配していました。
ベトナムを狙っていた日本軍は、
1940年6月にフランス本国が
ドイツに占領されたチャンスを捉えて、
9月に強引に北部仏印(ベトナム北部)に軍隊を進駐させました。
いわゆる「北部仏印進駐」です。
日本軍がベトナムを必要とした理由の一つは
ベトナムからの中国支援を阻止することでした。
当時ベトナムからの支援ル-ト、
いわゆる援蒋ルートは2つあると考えられていました。
◎ハイフォンからハノイを経て広西省へのル-ト
◎ハイフォンから東南鉄道で雲南省へのル-ト
さらには東南アジアでの前進基地や
戦争資源の確保や日本本土への米の供給も
大きな目的でした。
1941年7月、
日本は立場の弱いフランスにつけ込こんで
「日仏共同防衛協定」を強引に結んで、
南部仏印にも進駐する事になりました。
いわゆる「南部仏印進駐」です。
この協定で日本軍はベトナムにおいて
無制限に部隊の駐留が認められ、
港や飛行場が自由に利用できるようになったのです。
国力が低下していたフランスは
渋々と日本軍の要求を受け入れたのです。
現地ベトナムの人たちの立場からすると、
元々の支配者のフランス、新参者の日本の
両方から支配されるのですから大変です。
二重支配・・・・
特にフランスの黙認による日本軍による
強制労働、食料の強制供出、軍事費強制提供・・・
これらは人々の暮らしを苦しめました。
米を日本本国に送るため過酷な供出が行なわれ、
その上に田畑をつぶして軍用物資である
黄麻やヒマを強制的に植えさせたことは、
ベトナム農民にとって忘れられない暴挙であり、
食料強制供出と共に多数の餓死者を出す原因にもなりました。
●1945年当時のベトナムの新聞から(ベトナム高校歴史教科書)
・・・・とりわけこの4年来、
農民は多大な犠牲と搾取をこうむった。
汗水をたらして得た米も口にする直前に、
黙って空腹に耐え、
他に差し出さなければならない絹や綿を織っても
妻子は裸同然で寒さに耐えている。
油や塩を製造しても、毎日味気ない糠入り粥をすすり、
夜は夜で明かり一つない位暗い小屋で暮らしている。
恐らく、これまでの歴史の中で、
今ほど農民が犠牲を強いられている時代はないであろう。
1944年8月、フランスはヨ-ロッパ戦線でドイツに勝利し、
それと共にベトナムのフランス軍も
日本軍に強い姿勢を取るようになりました。
12月、日本軍はそれに対して一挙に3個師団を増強させました。
1945年2月、最高戦争指導者会議で
「情勢ノ変化ニ応スル仏印処理ニ関スル件」が決定され、
その中の「明号作戦-通称マ号作戦」によって、
3月9日、日本軍は現地でフランス軍を攻撃し武装解除しました。
それ以降ベトナムは日本の単独支配となりました。
●大本営発表 昭和20年3月10日 2時
我が仏印駐屯軍は
仏印当局の不信に基づき
印度支那に於ける
共同防衛遂に不可能となりたるにより、
茲に敵性勢力を一掃し単独にて同地の防衛に任ずるに決し
3月9日夜、所要の処置を開始せり
そして同時にベトナムに対し独立を許可しました。
この明号作戦を予測していた連合国軍は、
対抗上東京空襲をすると警告していました。
3月9日に日本軍がこの警告を無視して
ベトナムで攻撃をしたため、
翌日3月10日東京大空襲は実行されました。
1944年から1945年にかけてベトナム北部で大飢饉が発生し、
農村部でも都市部でも多くの人が餓死しました。
日本は大飢饉による餓死で日本軍のせいではない。
仕方がなかったのだ。・・・という立場です。
確かにその都市のベトナムは
台風や水害による被害がひどかったのは事実です。
しかしベトナム北部は昔から、
数年に一度大災害に襲われていた慢性地帯です。
それなのにこれまではこのような
大飢饉や餓死が起きることはありませんでした。
やはり本当の原因は日本の侵略にあるのかもしれません。
●考えられる飢饉や餓死の原因は・・・・
1 日本軍による米の強制供出
☆日本本土への米の輸出
ベトナムからの輸出量は
1940年47万トン
1941年59万トン
1942年97万トン
1943年100万トン
1944年50万トン
1945年4万5千トン
注:1945年は戦況悪化で輸出できませんでした。
☆数万の日本軍は2年分の米を備蓄してあった
明号作戦のために増強された日本軍は、
第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、その他で
総兵力82,000名といわれ、
北部だけで25,000名がいたといわれます。
さらに一般の民間日本人つまり
在ベトナム邦人が7,000名滞在していました。
それだけの日本人が2年分の食糧を備蓄していたのです。
☆フランス軍も米の備蓄をしていた
2 水田を潰して軍事物資である
ジュ-ト(黄麻)、ヒマ(油性植物)を栽培させた
ベトナムでは自然災害で米が取れなくても
トウモロコシのような雑穀を代替としてきましたが、
戦争が激化すると、日本、フランス共に
米やトウモロコシを強制買付けした上に、
繊維性や油性作物の栽培を強制しました。
結果として黄麻、チョマ、綿、ヒマ等
穀物以外の作付けは40年度と比べて44年度には
9倍に増えています。
5,000ヘクタ-ル→45,000ヘクタール
急速に作付面積を伸ばした
軍需物資の栽培と輸出は日本の会社が行ないました。
三菱商事 三井物産 大同貿易 日本綿花
台湾拓殖 又一商会 東洋綿花 その他
3 戦況の悪化で南部から米が入らなくなった
1938年~39年の統計では、
インドシナ全域の米の収穫量は年間630万トンです。
内訳は ベトナム北 25%
ベトナム中 16%
ベトナム南 40%
カンボジ 12%
ラオス 7%
人口が多くて食料の足りない北部は
地下資源と交換で南部から米を入れていました。
ベトナム全域を支配した日本軍は、連
合軍の攻撃を理由に北部に米を運ぶ努力をしなかったのです。
4 天候不良
ベトナムは慢性的に天候不良と水害があって飢餓の多い所です。
特に1944年の冬からの悪天候は世界的なことでした。
戦後もベトナムは何度も飢餓に襲われていますが、
1945年のような餓死者を出していません。
その時以外での最高の餓死者は1915年の200人です。
いくつか手記を取り上げます。
●第21師団独立野戦高射砲第62中隊 軍曹 武田澄晴
・・・・退院の日、私はジャラムから
ル-ジュ河畔に移動していた中隊に帰る時、
堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。
愕かずには居れませんでした。
迎えのトラックの上から果てしなく続くその、
まるでイリコを干してあるような光景はショックでした。・・・・
同僚の話では「なに、毎晩片付けられているのだが、
次の日は又この状態だよ」とのことでした。・・・・
生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者・・・・地獄でした。
ほとんどが子供と老人でした。
ムシロがかぶせてあるので死んでいるのかと思って見ると、
大きな目を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、
じっと見つめているガイ骨のような顔々々・・・・
むすびを持ったまま死んでいる者、
幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者・・・・
私も始めのうちは食物や銭を与えたりしましたが、
キリがないんです。・・・・
屍体をよけたりまたいたりして、市内の軍酒保に行くのです。
そこにはありあまる山海のご馳走が
安く飲食出来るようになっていました。
ああ、この地獄に取り巻かれた中での痛飲飽食!
サービスするベトナム娘はどんな気持ちだったでしょう。
その頃、師団は決戦に備えて2年分の食料を確保していたそうです。
* 第21師団第62連隊 2等兵 小林昇
・・・・猛烈な飢餓の惨状にいきなりでくわした。
四方から流れ着いた農民の家族たちが、
文字通り骨と皮だけになって、
街路で斃死してゆくのである。
それは栄養失調ではなく、絶食の死であった。
息を止めた夫の身体にすがって
妻や子の哭いている歩道を、幾時間して又戻ってくると、
妻の方ももう声明のしるしがかすかになっているというような、
やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、
私は始めて接したのであった。
市の大八車が路上のそういう死者たちを
積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでいく。
その車には、まだ確か息のかよっていると思われる
身体も積み込まれていた。
このように考えると、
やはり戦争の結果の餓死という見方が正解かもしれません。
餓死者は200万人といわれています。
日本政府では、推定30万人と主張しています。