一億総懺悔
安倍政権で一億総活躍社会と言う言葉が使われました。
それを聞いて敗戦直後にいわれた
一億総懺悔という言葉を思い出しました。
日本がポツダム宣言を受諾した時に、
あくまでも戦争終結に反対する
軍部、特に陸軍にク-デタ-等の
不穏な動きがありました。
天皇としてはその陸軍をうまく抑え、
敗戦処理を円滑に進めるために
皇族でありしかも陸軍大将である
東久邇宮稔彦王を総理大臣にする事に決めました。
東久邇は固辞したかったそうですが
天皇に懇願されて引く受けたようです。
ポツダム宣言受諾3日後、
1945年8月17日に総理になりました。
その時の閣僚は 国務大臣 近衛文麿
外務大臣 重光葵(9月半ばから吉田茂)
大蔵大臣 津島寿一
内閣書記官長兼情報局総裁 緒方竹虎
陸軍大臣 下村定(8月23日迄東久邇が兼任)
海軍大臣 米内光正
他
戦争を終結する場合、
日本の場合無謀な戦争を仕掛けて
敗戦になったのですから、
戦争の責任が問題になります。
一口に戦争責任といっても、
何故誰が戦争を始めたのかという開戦責任、
戦争途中の作戦の失敗の責任、
何故敗戦になったのかという敗戦責任等色々考えられます。
日本の場合国家特に最高指導者として
天皇が戦争を始めたのですから、
開戦責任を問題にすると天皇責任が問題になり、
国体護持上不都合になります。
そのため戦争を始めたのは正しかったのだが、
やり方が悪かったたため敗戦になった。
つまり敗戦の責任はどこにあるのか、
ということを問題にする必要がありました。
敗戦直前に内閣情報局から各マスコミに対して
「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは
全く不毛で非生産的であるので許さない」との
通達が出されていました。
また戦争終結を「終戦」とするのか「敗戦」とするのか
現在でもいい加減な呼び方がされていますが、
東久邇宮は「敗戦の現実をきちんと認識して
はじめて国土が再建できると」敗戦を主張しましたが、
「国民の混乱を防ぎ、時局収拾を円滑にするため」
終戦と呼ぶように説得されています。
そして結果として東久邇宮総理は
極力敗戦責任に重点を置く発言を繰り返しました。
●8月28日、日本人記者団と会見
◎国体護持ということは理屈や感情を超越した
硬いわれわれの信仰である。
祖先伝来我々の血液の中に流れている
一種の信仰である。
四辺からくる状況や風雨にとって
決して動くものではないと信じる。
◎現在において先日下された詔書を奉戴し、
これを実践に移すことが
国体を護持することである。
また一方詔書を奉戴し、
また外国から提出してきた条項
(注:ポツダム宣言)を確実に忠実に
実行することによってのみ
わが民族の名誉を保持する所以だと思う。
◎余りにも多くの規則、法令が発せられ、
またわが国に適しない規制が行われた結果、
国民は全く縛られて、何も出来なかったも、
戦敗の大きな原因
◎お国のためにしていると思いながら、
実はわが国は動脈硬化に陥ってしまった
◎ことここに至ったのはもちろん、
政治の政策がよくなかったからでもあるが、
また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。
この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し
懺悔しなければならぬと思う。
全国民総懺悔することが
わが国再建の第一歩であり、
わが国内団結の第一歩と信じる。
●8月30日、上記を受けての朝日新聞の社説
正に一億総懺悔の秋(とき)、
しかして相依り相扶けて(たすけて)
民族新生の途に前進すべき秋である。
●9月5日、国会での施政方針演説
事ここに至ったのは勿論政府の政策が
よくなかったからではあるが、
また国民の道義のすたれたのも
この原因の一つである。
この際私は軍官民、国民全体が徹底的に
反省し懺悔しなければならぬと思う。
全国民総懺悔することが
わが国再建の第一歩であり、
わが国内団結の第一歩と信ずる。・・・・
敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、
前線も銃後も、軍も官も民も総て、
国民悉く静に反省する所がなければなりませぬ、
我々は今こそ総懺悔し、
神の御前(注:天皇の御前)に一切の邪心を洗い浄め、
過去を以て将来の誡めとなし、
心を新たにして、
戦いの日にも増したる挙国一家、
相援け相携えて各々その本分に最善を竭し、
来るべく苦難の途を踏み越えて、
帝国将来の進運を開くべきであります。
この一億総懺悔という言葉の意味は
天皇・政府・軍部の戦争を始めた責任を
あいまいにし、国民を含め全部が悪かったのだから
戦争に負けたのだということです。
そのことは戦後70年経っても
私たち国民が自ら先の戦争の責任を調査し追及していないで
あいまいのままにしておく点では続いています。
そして一億総懺悔と言う言葉は流行語になりました。
GHQとしては東京裁判上それでは困るので
一億総懺悔を押さえ込む措置を取りました。
●9月10日、「言論および新聞の自由に関する覚書」
報道可能な範囲を規定し
GHQに関する事項の報道制限を実施
●19日新聞に関するプレスコ-ド発表
「自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教える」
●22日
ラジオに関するプレスコ-ド発表
●9月20日、
中等学校以下の教科書から
戦時教材を削除することを指示、
教科書の黒塗りが始まる
●9月24日、「報道の政府からの分離に関する覚書」
報道への日本政府の統制支配が廃止された
(注:今また政府の報道への介入が始まっています)
●10月4日、
「政治的、公民的及び宗教的自由に対する
制限の除去に関する覚書」
及び「政治警察(特高警察)廃止に関する覚書)
(内容)
1 天皇に関する議論を含む
思想、言論の自由を抑圧する一切の法令の廃止
2 治安維持法関連の一切の法令の廃止
3 政治犯の即時釈放
4 治安維持法にもとづく特高など弾圧機構の解体
5 弾圧を担ってきた内務大臣、警保局長、
警視総監のほかすべての特高警察の罷免
●10月8日、GHQが「五大改革」を指令
(内容)
1 女性の解放と参政権の授与
2 労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止
3 学校教育の自由化
4 秘密警察制度の廃止
5 経済の集中排除と経済制度の民主化
上記4日と8日の覚書や指令から
一億総懺悔や共産化対策が
不可能と感じた東久邇宮は総辞職しました。
10月9日、幣原喜重郎内閣が誕生しました。