ソ連の仲介で戦争終結する構想

日本政府では連合国や中国との

戦争を何とか終結させようとする考えで、

中立条約を結んでいたソ連を

仲介役に頼もうとする動きがありました。

ソ連との交渉はうまくいかなかったのですが、

このような計画があることは以前から知られていました。

しかし詳しいことは分かっていませんでした。

 

このたびその事実を裏付ける重大な資料を東京新聞が入手し、

大スク-プとして2014年8月14日に発表しました。

大変重要な資料なので東京新聞を参考に整理します。

当時東条内閣の外務大臣だった重光葵(しげみつまもる)

は1944年(昭和19年)5月にソ連を仲介役として

中国との戦争を終結することを目指しました。

敗戦の1年3ケ月も前のことです。

佐藤尚武モスクワ大使と

重光外相の間で交わされた公式文書

122通が発見されました。

 

当時モスクワ大使館の一等書記官だった

竹内龍次氏が大事に保管し

佐藤大使の遺族が保管していたのです。

 

この様な重要な外交文書は

本来国がきちんと管理するべきなのに

個人が保管していたことは日本国家のいい加減さの象徴です。

 

●重光葵(しげみつまもる)

 1887年生まれ

 駐ソ、駐英、駐華大使を経て

 東条内閣、小磯内閣で外務大臣を務めた

 敗戦直後の東久邇内閣でも外務大臣を務めた

 東京裁判ではA級戦犯として禁固7年

 鳩山一郎内閣で副総理兼外務大臣を務めた

東京新聞記事から外交秘密公電を時間の順に次に書きます。

 

「外交秘密公電」

  文章は少し読みやすくしてます。

  秘密度は機密性の高い順から

  「外機密」「極秘」「秘」になっています。

●外機密

  昭和19年5月25日

在ソ佐藤大使宛

 1、東亜方面の国際関係については、

    将来ソ連の発言参加は止むを得ず

    又帝国に取りて必ずしも不利益ならざるべく、

    特に現下の世界情勢において

    ソ連を協力的地位に置くことは有意義と思考せらる。

 2、最近の米英における反重慶世論は

    もとよりソ連の利用する所にして、

    支那における国民党及共産軍の妥協は

    その重圧の下に実現せられんとしつつあり。

    彼等の共同の目的は、

    もとより抗日即ち日本に鉾先を向くものなり。・・・・

    日ソの間においては既に最近の交渉により

    衝突無きを得る素地を得たる。

    今日これを延長して支那問題について

    何等話し合いを行い、

    妥協の途を発見すること能わざるや。

 3、国共妥協より進んで日ソ支の関係において

    支那における戦争を終結に導くの方策考え得られざるや。

 重光外務大臣発

    注:重光外相は戦争終結に

      ソ連の協力を得られないかと打診しています。

●極秘

  昭和19年6月3日

  重光外務大臣宛 在ソ佐藤大使発

 今ソ連が積極的に支那に

 進出し来ることありとせば、

 それぞれ欧州戦の連合三国の一として

 他の連合国と連繋を保ちつつ

 乗り込み来るものにして・・・・

 ソ連を我が協力的なる地位に置かんとする

 貴電の予想も実現不可能と為す次第なり。

 ソ連をしてかくのごとき工作に

 乗り出させしめざること

 可能なりや否やは頗る疑問とせざるを得ず、

 ただ我は中立条約の建前よりソ連邦を抑制し

 支那において帝国に不利なる連衝に

 加担せしめざるよう努力する外なかるべし。

 国共を妥協せしめ進んで支那における

 戦争を終止に至らしめんとする

 問題に対する解答は・・・・

 明白に否定的結論に到達せざるを得ず。・・・・

   注:佐藤大使はソ連の

     協力は得られないだろうと主張しています。

 

●極秘

  昭和19年7月14日

  在ソ佐藤大使宛   重光外務大臣発

 ソ連が同盟関係にある米英と

 世界全局の問題に付き話し合いをなす

 立場にあるは理解せらるるところにして、

 これと共に中立関係の現状にとどまらず、

 戦争の将来等に関し

 意見の交換をなす下地を見出しえる訳なり。

 政府においては・・・・

 満ソ間の国境問題解決等についても

 積極的態度を持しおることご承知の通りなるが、

 大局上両国の利益の合する一切に従い

 今後も種々の施策を進めしかるべしと認めらる。

   注:満州国境でも妥協するのでいかが?かとの打診です。

 

●秘

  昭和20年1月19日

  重光外務大臣宛   在ソ佐藤大使発

 4月25日迄にはドイツは最早ソ連に対し

 大なる脅威たらざるが如き・・・・。

 ソ連に取りては日本との関係において

 中立条約存続の対象消滅することとなり、

 従って右条約存続による利益は

 日本のみが一方的に享有することとなる。

 結果、自然、条約廃棄問題を

 誘発するに至るやも知れずと察せらる

 英、米、ソ三巨頭会談に関しては・・・・

 日ソ関係は従来に比し、一層真剣に論議せらるべく、

 その結果中立条約の廃棄ないしは

 それ以上の破局を見る公算なきを保せず・・・・

 我方に対し最悪の場合を

 招来せずとも限らざる次第にて・・・・

   注:佐藤大使はこの時点で既に

     日ソ中立条約は破棄されることを

     予測していました。

 

●極秘

  昭和20年2月13日

  重光外務大臣宛   在ソ佐藤大使発

 1、三国会議(注:ヤルタ会議のこと)公表は、

    従前の諸会議に比し著しく力強く、

    軍事政治両方面に亘り

    完全に協定せるを思わしむるものあり。

 2、公表文より見れば会議は

    対独問題、純欧州問題に限られたり。

    取り扱われたる問題の範囲、量およびその重要性に鑑み、

   8日間の仕事としてはこれだけにて手一杯なりしなるべく、

    極東問題までは事実手が伸びざりしものと判断せざる。

 3、ただし、中立条約の維持は却って

    困難となりたるにあらざるやと感ぜらる。

      もっともこの場合においても

   ソ連は現下の情勢において

   今すぐに対日断交乃宣戦等に出ずるにあらず

 4、三者会合は対枢軸戦時外交攻勢として、

    成功と言わざるを得ず。

       この強力なる攻勢は自然世界各国へ大なる印象を与うべく、

    この大勢に刃向かうこと頗る困難となる。

注:佐藤大使はヤルタ会談の結果

  日ソ中立条約の維持は困難になった。

     又ヤルタ大勢に刃向かうことは

  困難であると判断しています。

 

●極秘

  昭和20年5月9日

  東郷外務大臣宛  在ソ佐藤大使発

 ソが我方に押付けんとする条件は

 我陸海軍の解消を含むは勿論、

 殆ど無条件降伏に近かるべく、

 而してソ連自身の取分としては

 「ポ-ツマス」条約の解消を主眼とし、

 凡そ左の如きものなるべきか。

(イ南樺太の還付

(ロ)漁業権の解消

(ハ)津軽海峡の開放

(ニ)満州の支那主権下復帰

(ホ)北鉄および日本の敷設に係る北満戦略的鉄道線の譲渡

(ヘ)ハルビンのソ連行政下編入

(ト)ソ連に対する関東州の租借移譲

(チ内蒙のソ連部内編入等の諸問題の他

(リ)朝鮮の処分、支那問題等も持出し来るべし

 而してソ連が右の如き条件を我方に突付くる場合、

 必ずや強大なる態度を以って臨み来るべく、

 ここにおいても我方も和戦いずれかを

 択ばざるべからざる羽目となるべし。

注:5月の時点で敗戦後のソ連の出方を予測していました。

しかし予測を無視してその後

沖縄戦、原爆投下へと進みました。

 

昭和20年の4月7日、

和平の道を模索していた

鈴木貫太郎が総理大臣になりました。

5月11日から14日にかけて最高戦争指導会議が開かれ、

ソ連を仲介者に選ぶことが決定されました。

東郷外務大臣も「無条件降伏以上の講和に導き得る

外国ありとせばソ連なるべし」と考えていました。

このあたりのことは

「極秘電報に見る戦争と平和」を参考にします。

 

●6月22日、

 アメリカ軍が沖縄を占領したことで、

 天皇の御前で最高戦争指導会議構成員懇談会が開かれました。

 出席は鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、

 米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長でした。

 そこで「戦争は継続するべきであるが

 一方で戦争終結考慮することも必要

 ソ連を仲介に国体護持を条件とした

 終戦工作をする」旨決定されました。

 

●6月29日、

 元首相広田広毅はソ連大使館を訪問し

 マリク在日ソ連大使に仲介を依頼しました。

 

7月7日、天皇は鈴木貫太郎首相に

 「天皇の親書持参特使の派遣」を提案しました。

 

7月12日近衛文麿を特使として

モスクワに派遣することを決定し、

東郷外相は現地に打電しました。

●昭和20年7月12日 20時50分 東郷外務大臣発 (原文カナ)

  在ソ佐藤大使宛

  第893号(緊急)

 天皇陛下におかせられては今次戦争が

 交戦各国を通じ国民の惨禍と犠牲を

 日日増大せしめつつあるを御心痛あらせられ、

 戦争が速やかに終結せられんんことを

 念願せられおる次第なるが、

 大東亜戦争において米英が

 無条件降伏を固執する限り

 帝国は祖国の名誉と生存のため

 一切をあげ戦い抜くほかなく

 これがため彼我交戦国民の流血を大ならしむるは、

 誠に不本意にして人類の幸福のため

 なるべく速やかに克服せられんことを希望せらる

 右御趣旨をもってする

 御親書を近衛文麿公爵に携帯せし

 貴地に特派使節として差遣せらるる御内意なるにより、

 右の次第を「モトロフ」に申入れ、

 右一行の入国方につき大至急

 先方の同意を取り付けらるる様いたされたい

 

7月13日、佐藤駐ソ大使は外相モロトフに

面会の申入れをしましたが断られ、

外相代理のロゾフスキ-にメッセ-ジを託しました。

7月16日、ポツダム会議出席の為

現地にいたアメリカ陸軍長官に

ワシントンから原爆実験成功の知らせが届きました。

日本政府はソ連を頼りにしていましたが、

ソ連の仲介は到底無理なことを感じていた

現地の佐藤大使は7月20東郷外相に電報を出しています。(原文カナ)

 

●佐藤大使から東郷外相への電報

 本使は交戦力壊滅して

 猶戦争を継続さるを以て不可能事なること

 既に往電第1143号ても申進したる所なり、

 然るに皇軍はさらなり全国民もまた

 至上命令なき限り敵の軍門に降るを肯せさるべく

  文字通り最後の一人となる迄矛を捨てさるべし、

  去り乍ら敵の絶対優勢なる爆撃砲火の下

 既に交戦力を失いたる将兵及国民が

 全部戦死を遂げたりとも社稷は救わるべくもあらず、

 七千万の民草枯れて上御一人御安泰なるを得べきや

 想うて此所に到れば個人の立場も軍の名誉も

 将又国民としての自負心も社稷には代え難し

 即ち我は早きに及んで講和提唱の決意を

 固むる他なしと言うに帰着す・・・・

 

7月26日、ポツダム宣言が発表されました。

上記のように一刻も早く講和の道を探るべきと

斉唱していた佐藤駐ソ大使は

軍部からは疎まれていました。

その時ポツダム宣言が出されたのです。

8月4日佐藤大使は東郷外務大臣に

電報を打っています。

 

●8月4日 22時28分 モスクワ発

 8月5日 17時15分 東京着  在蘇 佐藤大使

  東郷外務大臣

  第1520号(館長符号緊急)

  往電1517号に関し

 ソ連政府が戦争終結の斡旋を

 引受けると否とに拘らず、

 今次の大東亜戦争終結のためには、

 7月26日の米英支三国対日宣言が

 その基礎たるべきこと最早動かし難き所、

 ソ連が仲介の労を取る場合にも

 右の基礎において為さるべきこと自然の帰結なり、

 この点において貴電第973号括弧内の記述は

 少なくとも三国宣言を我が方条件考究の

 基礎としたき御所存とのことにて至極結構と存ぜらる、

 右に付き貴電第629号をもって転電を受けたる

 在スイス加瀬大使の三国宣言に関する

 考察は極めて中正妥当の観察と思考せられ

 本使も全幅的同感を表する所なり、

 もし右宣言が同公使解釈の如きものなりとせば、

 その基礎において立案せらるべき講和条件は

 今次「ポツダム」三国会議決定にかかわる

 ドイツ処理条件比べ

 ある程度緩和せられたるものとなるべしと

 想像すること必ずしも牽強付会の説というべからず、

 而して右は日本の平和提唱の決意が

 一日早く連合国に通達せられるは

 それだけ条件緩和の度を増すこととなる道理なるに反し、

 もし政府軍部の決意成らず

 荏苒(注:じんぜん、長引かせること)日を

 空しくするにおいては

 日本全土を焦土と化し

 帝国は滅亡の一途を辿らざるを得ざるべし

 如何に緩和せらるるとするも

 講和条件の如何なるものなるべきやは

 ドイツの例に見るまでもなく事

 前において既に明らかにして

 多数の戦争責任者を出すこと

 予め覚悟せざるべからず

 さりながら今や国家は滅亡の一歩手前にあり

 これ等戦争責任者が真に愛国の士として

 従容帝国の犠牲となるも

 真に已むを得ざる所とすべし、

 加瀬公使の意見を読んで感極めて深きものあり、

 敢えて卑見を呈す (了)

 

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