中国の資料
1372年に琉球冊封使が琉球に来たと言っても
資料はありません。
資料として残っている一番古い航海日誌は
1534年のものです。
その日誌から見てみます。
●1534年
中国・明の冊封使、陳侃(ちんかん)は、
5月8日に福州の梅花所から外洋に 出航し、
東南に進み、鶏籠頭(台湾基隆)の沖で
東に方向を変えて10日に釣魚島を過ぎています。
陳侃は第11回目の冊封使です。
その時の航海日誌を見てみます
「使琉球録」
10日、南風はなはだ速く、船は飛ぶように進む。
しかし流れに従って下ればそんなにひどくはない。
平嘉山を過ぎ、釣魚島を過ぎ、
黄毛島を過ぎ、赤島を過ぎる。・・・・
11日夕、古米山(久米島)を見る。
すなわち琉球に属するところなり。
夷人(注:冊封使の船で働く琉球人)は船を急がせる、
家に帰れるのを喜ぶ。
注:下線のところを見ると
「11日久米島を見る。すなわち琉球に属する」となっています。
この航海日誌では久米島の手前までは中国領となっているのです。
●1561年 胡宗憲(こそうけん)編集「籌海図編」(序文が1561年)
巻一「沿海山沙図」に沿海の島々が示されています。
そこに「鶏籠山」「彭加山」「釣魚島」「化瓶山」
「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」と西からの順で並んでいます。
注:島の名前は現在のどれに当たるかは不明です。
●1562年 冊封使 郭汝霖(かくじょりん)の航海日誌
「重編使琉球録」にも出てきます。
その時の航海は1562年5月29日、福州から出発しています。
閏(うるう)五月初一日に釣島を過ぎる。
初三日赤島に至る。
赤島は琉球地方を界する山なり。
あと一日の風あれば、即ち姑米山(久米島)を望むべし
注:「界する山」とあります。
界とは境界線の界です。
つまり赤島を過ぎたあたり
が中国と琉球の境界だという意味です。
●1683年6月 中国が清朝になってからの
第2回目の冊封使・汪楫(おうしゅう)の日誌です
使録「使琉球雑録」
24日、明るくなり島を見れば即ち彭佳山なり・・・
辰の刻、彭佳山を過ぎ、酉(トリ)の刻釣魚島を通過する。・・・・
25日島を見る。
まさに先は黄尾、後は赤尾である、
いくばくもなく赤島に達する。
いまだ黄尾島を見ていない。
夕暮れ郊に至る。風波大きくなる。
生猪羊各1頭を海に投げ、五斗米の粥を注ぎ、
紙船を燃やし、鉦を鳴らし、鼓を打ち、
諸軍皆甲を着けて、刃を抜いて、
舷に伏せ、敵を防ぐふりをする。
この祭りをしばらく行なう
注:1 郊は内外の界で境目の意味。
溝とも言う
2 過溝祭 溝(郊)を通過するとき
豚と羊を生贄にして海難除けをする祭り。
「界」「溝」「祭り」のことはそれ以降の航海日誌にも出てきます。
* 1756年周煌の「琉球国志略」、
「溝の義は内外の界なり」
* 1808年の斉鯤の「続琉球国志略」にも見られる。
「溝を過グ、海神を祭る」
3 「琉球国志略」は琉球人にも読まれ、
1831年(天保2年)日本版が出ました。
●1719年 冊封使 除葆光「中山傳信録」
従来の不正確な点を直すため、
琉球の琉球王朝最高の地理学者
「蔡温」と協力し8ケ月研究して書いたもの。
日本版も出て広く読まれた。
この中では姑米島つまり
現在の久米島を「琉球西南方界上鎮山」としている。
注: 鎮は鎮守の鎮のことで、
境界線にある琉球の鎮めの島の意味です。
琉球の端の島を鎮山と称する事は
ここが国境と言う意味に取れます。
このように中国の古い文献を自然に解釈する限り、
尖閣列島は中国の領土のように見えます。
少なくとも領土だと主張しているわけではなく、
昔から自国であると解釈していたので
このように書かれているのでしょう。
前記中山傳信録は中国の葆光と琉球の蔡温が
協力して書いたものですが、
それでは朝貢国の方
琉球としてはどのような資料があるのでしょうか。