中国での軍事裁判
中国では、終戦時多くの日本軍人を
戦争犯罪者として逮捕し、
軍事法廷で裁きました。
しかし周恩来の「罪 に対しては徳を持って接する、
罪を憎んで人を憎まず」という命令で
一人の死刑や無期懲役も出しませんでした。
「中華人民共和国での軍事裁判」
戦後多くの日本人が戦犯として収容所に収容されました。
収容所は2ケ所あり、山西省の「太原戦犯管理所」に140人、
遼寧省の「撫順戦犯管理所」にはソ連のシベリアから移管された969名の
合計1100人以上が収容されました。
管理所では世にもまれな人道的な扱いを受け、
捕虜達は次々と自ら供述書を書きました。
そして1956年6月と7月に瀋陽と太原で開かれた
「最高人民法院特別軍事法廷」に45名のみが起訴され、
他の1000人以上は無罪で即日釈放されました。
うがった見方をすれば中国側には
色々と思惑があったかもしれません。
しかしこのレポ-トにあるような
犯罪を犯した兵士のほとんどが無罪になったことは
大変なことでしょう。
収容所に勤務する中国人職員は
親、子供、兄弟が犠牲になっています。
しかも食べる物が無いほど貧乏をしていました。
その中で何故日本人戦犯だけが優遇されるのか?
(戦犯は白米を始め日本食を与えられた)
管理所ではかなり不満がたまり、
中国全土でも抗議は起きたほどです。
周恩来は「日本が再び侵略をしないように・・・・
この措置は何十年か後に分かる筈だ」と説得したそうです。
日本が逆の立場だったらこのように
寛大な処置が出来たでしょうか?
起訴はされましたが、
死刑や無期懲役は出さずに最高20年最低8年の刑でした。
●起訴された主要な名前は
氏名 | 元の職務 | 刑期 | 釈放年月 | 備考 |
武部六蔵 | 満州国国務院総務庁長官 | 20年 | 1956年7月 | 病気釈放 |
鈴木啓久 | 陸軍第117師団師団長・中将 | 20年 | 1963年6月 | 満期前釈放 |
斉藤美夫 | 満州国憲兵訓練処処長・少将 | 20年 | 1964年3月 | 満期前釈放 |
富永順太郎 | 陸軍特務機関「富士機関」主事 蒋介石国防部中校副隊長 | 20年 | 1964年3月 | 満期前釈放 |
古海忠之 | 満州国国務院総務庁次長 | 18年 | 1963年2月 | 満期前釈放 |
藤田茂 | 陸軍第59師団師団長・中将 | 18年 | 1957年9月 | 満期前釈放 |
上坂勝 | 陸軍第54旅団旅団長・少将 | 18年 | 1963年8月 | 満期前釈放 |
中井久二 | 満州国司法部司法矯正総局長 | 18年 | 1963年9月 | 満期前釈放 |
三宅秀也 | 満州国奉天省警務庁庁長兼地方保安局局長 | 18年 | 1963年4月 | 満期前釈放 |
杉原一策 | 満州国司法部刑事司司長 | 18年 | 1963年9月 | 満期前釈放 |
佐古龍祐 | 満州国牡丹江鉄道警備旅団旅団長・少将 | 18年 | 1961年8月 | 満期前釈放 |
城野宏 | 太原綏靖公署教導総対象少将副隊長権処長 | 18年 | 1964年3月 | 満期前釈放 |
佐々眞之助 | 陸軍第39師団師団長・中将 | 16年 |
| 1959年死亡 |
長島勤 | 陸軍第59師団第54旅団旅団長・少将 | 16年 | 1959年末 | 満期前釈放 |
横山光彦 | 満州国ハルビン高等法院次長 | 16年 | 1961年8月 | 満期前釈放 |
原弘志 | 満州国鉄道警備軍参謀長・少将 | 16年 | 1957年9月 | 満期前釈放 |
今吉均 | 満州国警務総局警務処処長 | 16年 | 1961年8月 | 満期前釈放 |
田井久二郎 | 満州国チチハル市警察局特務科科長 | 16年 | 1957年5月 | 満期前釈放 |
以下省略
そして1964年3月に全員が満期前釈放で帰国しました。