始めに
通常、国同士の戦争は政府と政府の戦いですから、
一方の政府が降伏すれば終わります。
中国への日本の侵略では当然日本軍と国民政府軍の戦いでした。
南京を占領された国民政府は首都を重慶に移転しましたので、
日本としては後は重慶攻撃に成功すれば一段落で、
むしろ占領した土地の安定に力を注ぐ必要がありました。
しかし中国では、国民党と言う中央政府はあったものの
まだ地方には沢山の軍閥があり
小さな政府のようなものが各地にあったのです。
共産党のゲリラ組織もありました。
国民政府軍を追い出して安心して
占領していた地域から多発的にゲリラによる攻勢が始まりました。
その内、次第に中国共産党が力をつけてくると
各地のゲリラ組織や国民政府軍の
敗残兵を集め組織化し軍隊として再編成してきました。
新四軍、第一路軍、第二路軍、第三路軍、・・・・第八路軍などです。
●日本では八路軍が有名です。
正式には国民革命軍第八路軍といい、
三個師(師団)で編成されました。
総司令 朱徳
第115師長 林彪
第120師長 賀龍
第129師長 劉伯承
中央政府(国民政府)に管理されない
自主的な人民軍が日本軍と戦うようになったのです。
このような戦争では、たとえ政府が降伏しても
国民全部が自主的に戦うのですから、
勝ち負けという概念がなくなります。
行く先々でそこに住んでいる住民を
次々と敵に変えていく占領の仕方をしたのですから、
勝利はありません。
攻撃をすればゲリラはいなくなり、
日本兵がいなくなるとゲリラの村になる。
しかもゲリラ兵と村人の区別が一切つかないのです。
戦っても戦っても暖簾に腕押し、
むしろゲリラの襲撃で日本軍が
負けることが多くなり泥沼の戦争に入りました。
日本兵の手記にはゲリラに対する恐怖心でビクビクし、
襲撃されて逃げる場面が多く見られます。
せっかく占領してもゲリラのために
点と線しか確保できない状態になってきたのです。
しかし日本軍中央の見方は甘く、
共産軍を軽視し、
あくまで敵は国民政府と考えていたのです。
●北支那方面軍作戦課高級参謀 吉原矩大佐(のち中将)の述懐
戦史叢書・北支の治安戦 1 から
治安粛清の対象としての中国共産党に対する
認識は不十分であった。
当時は中共軍を必ずしも重視せず、
わが占領地域に残存潜在する蒋系(注:国民政府系)
敗残部隊とほぼ同様の残敵、
または抗日匪賊程度に見て・・・・
たいした事はなかろうと軽視していた。
1940年8月共産軍の「百団作戦」と呼ばれる一斉攻撃を受け
大きな損害とショックを受けた日本軍は作戦を変更しました。
それ以降三光作戦と呼ばれる
歴史上稀に見る残酷な作戦が始まったのです。