住民総動員

「沖縄には非戦闘員は一人もいない」

軍官民共生共死の一体化」と言われた位、

徹底的に徴用(根こそぎ動員)されました。

徴用は全ての市町村に割り当てられ、

最盛期で1日約50,000人が動員されたといわれます。

小学校3年生以上の子どもから

老人、主婦までがかり出されました。

ですから戦闘で死んだとされる軍属や戦闘参加者は

実は正式な軍人ではなく、ほとんどが住民なのです。

 

●県民の採るべき方途、その心構え 1945年1月27日 沖縄新報

 ただ軍の指導を理屈なしに素直に受入れ

 全県民が兵隊になることだ、

 即ち一人一殺の闘魂をもって敵を撃破するのだ・・・・

●米軍が上陸した時の県民の任務 1945年2月15日 沖縄新報

 弾丸運び、糧秣の確保、連絡、

 そのいずれも大切であるが直接戦闘の任務につき、

 敵兵を殺すことが最も大事である。

 県民の戦闘はナタでも鍬でも竹槍でも

 身近なもので軍隊の言葉でいう遊撃戦をやるのだ。

 県民は地勢に通じており、夜間の斬り込み、

 伏兵攻撃即ちゲリラ戦をもって向うのである。

  注:実際に米軍に対してナタや鍬で斬り込んで多くの住民が犠牲になりました。

 

徴用の形式は色々あります。

ひめゆり部隊で有名な学徒隊は

「殉国美談」として語られています。

皇民化、軍国思想を徹底して叩き込まれた学生は

悲劇の主人公として取り上げやすいせいでしょう。

しかし実際には一般住民、

特に老人や学生以外の子ども達が根こそぎ召集されました。

防衛隊の方が犠牲者は圧倒的に多いのです。

防衛隊に関する調査はあまり進んでいません。

 

「学徒隊」

法規に基づいて召集されたわけではなく、

志願による義勇隊でした。

志願と言いながら

実際は半強制的で拒否は出来ない雰囲気でした。

学徒隊は学生ですから日頃の教育の中で

徹底した皇民化、軍国教育を受けていました。

そのために悲劇がより多くなりました。

県内各地の男子校10校、女子校7校で、

13歳から19歳までの2,200名以上が組織されました。

 犠牲者の正確な数は現在でも分かっていません。

◎1956年 国の調査              980人

◎1959年 琉球政府の調査        1,122人

◎1978年 沖縄県の調査           1,232人

◎1999年 ひめゆり平和祈念資料館調査  1,226人以上

 

「男子学徒隊」

 鉄血勤皇隊と称した  

 師範学校男子生徒及び9校の生徒 1945年3月31日編成

注:鉄血勤皇隊については別項目で詳しく書きます。

学校名

動員数

死亡数

死亡率

沖縄師範学校

386人

224人

58.0%

県立第一中学校

371人

210人

56.0%

県立第二中学校

144人

127人

88.0%

県立第三中学校

363人

37人

10.2%

県立工業学校

94人

85人

90.4%

県立農林学校

173人

41人

23.7%

県立水産学校

49人

23人

46.9%

那覇市立商業学校

99人

72人

72.7%

開南中学校

81人

70人

86.4%

県立八重山中学校

20人

1人

5.0%

合計

1,780人

890人

50.0%

        出典:「歩く・みる・考える沖縄」

 男子学徒隊は目的によっていくつかの隊に分けられたました。

師範隊本部

千早隊

 宣伝隊で地域住民への扇動と隠蔽工作

通信隊

 伝令や通信

斬り込み隊

 敵への斬り込み、

     急造爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って特攻

野戦築城隊

 陣地造り

 

「女子学徒隊」

兵役方や陸軍の規則では、

戦場動員は男子に限られており女子学徒の動員は法律にはなかったので、

県当局は女子学徒隊に抵抗したが、軍は「超法規的」に強制した。

学校名

学徒名

動員数

死亡数

死亡率

沖縄師範学校女子部

ひめゆり学徒

157人

81人

51.6%

県立第一高等女学校

ひめゆり学徒

65人

42人

64.8%

県立第二高等女学校

白梅学徒

55人

21人

38.2%

県立第三高等女学校

なごらん学徒

10人

1人

10.0%

県立首里高等学校

瑞泉学徒

61人

33人

54.1%

私立積徳高等女学校

積徳学徒

65人

4人

6.2%

私立昭和高等女学校

でいご学徒

17人

7人

41.2%

合計

 

430人

189人

44.0%

         出典:ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック

*沖縄女性史(沖縄タイムス刊)によると、次のようになっています。

動員  467人

死亡数 378人

死亡率  81%

 

「防衛隊」

1942年9月26日に公布された「陸軍防衛召集規則」が、

1944年10月19日に改正されて

17歳から45歳までの男子が召集されました。

22,000人から25,000人が招集され、

13,000人以上が戦死したといわれています。

現地召集の補助的な兵隊のことですが、

沖縄では規則に違反して

13歳から70歳までが根こそぎ召集されました。

病人も例外ではありませんでした。

陣地や飛行場の構築や弾薬運搬等の

後方支援が主とした仕事でしたが、

最後の方は槍と手榴弾2個を持っての夜間の斬り込みや、

爆雷を背負って戦車に体当たりするなど、

最前線で突撃まで命令されました。

 

「在郷軍人防衛隊」

1944年7月編成で義勇軍のようなものでした。

 

「遊撃隊」

敗戦を想定した日本軍遊撃戦を検討し始めました。

いわゆる秘密部隊です。

中野学校卒業と同時に

沖縄で遊撃隊を編成するようにと命令を受けた

村上治夫は数十名で沖縄に渡りました。

●大陸命1126号(原文カナ)

命令

 1、左の部隊を第32軍戦闘序列に編成す

   第3遊撃隊  第32軍管理

   第4遊撃隊  第32軍管理

           (略)

 5、細項に関しては参謀総長にして指示せしむ

昭和19年9月9日

奉勅傳宜 参謀総長 梅津美治郎

              (略)

第32軍司令官  牛島満殿

遊撃隊は秘密保持と故郷を

自分の手で守るという意識を根付かせるため、

呼称名を護郷隊としました。

  第3遊撃隊→第1護郷隊

  第4遊撃隊→第3護郷隊

遊撃隊は陸軍中野学校で特殊訓練を受けた将校、

下士官が指揮官となってゲリラ戦を展開する部隊です。

戦争に負けることを想定し、正規軍が壊滅した後も敵中に潜伏し、

現地住民を組織して敵をかく乱するゲリラ戦をする事が目的です

小野田さんがその例です。

第1遊撃隊はニュ-ギニアに、

第2遊撃隊はフィリピンに配備され、

第3遊撃隊(村上隊長)と第4遊撃隊(岩波隊長)が

1944年に沖縄に配備されました。

隊員数は第3第4合わせて900人位で、

一般隊員として防衛隊員や

鉄血勤皇隊の人たちが配属させられました。

遊撃隊が沖縄に配置されたということは、

沖縄守備軍の玉砕が既定の方針であったことがわかります。

遊撃隊では徴兵年齢が引き下げられたのに合わせて

15~16歳の少年を召集し

そのため多くの少年たちが痛ましい犠牲者になりました。

沖縄の遊撃隊では重要な任務の一つに

「住民のスパイ活動の取り締まり」がありました。

その為の実働部隊として、

1945年3月に国頭地区で国士隊が組織されました。

 

●陸軍中野学校出身の沖縄配置一覧表

季刊戦争責任研究第79号  川満彰論文から引用

    注:何人かは秘密保持の為偽名を使っています。

No

氏名()内は偽名

任務及び配属

配置場所

役職

階級

1

村上治夫

第3遊撃隊

(第1護郷隊)

配属:独立混成第44旅団

多野岳・名護

大隊長

中尉

2

首藤孝雄

多野岳・名護

情報係

軍曹

3

近藤重喜

多野岳・名護

通信兵器係

軍曹

4

油井栄麿

多野岳・名護

第1中隊長

少尉

5

菅江敬三

多野岳・名護

第2中隊長

少尉

6

木下忠正

302高地

第3中隊長

少尉

7

竹中素

久志岳

第4中隊長

少尉

8

岩波寿

第4遊撃隊

(第2護郷隊)

配属:独立混成第44旅団

恩名岳

大隊長

中尉

9

溝茂彦

恩名岳

本部付

軍曹

10

楯岡敏光

恩名岳

本部付

軍曹

11

中島寛

恩名岳

第1中隊長

少尉

12

松崎正行

恩名岳

第2中隊長

少尉

13

畑友迪

恩名岳

第3中隊長

少尉

14

今村武秋

護郷隊(第45旅団)

西表島

第4中隊長

少尉

15

増田保雄

護郷隊(第45旅団)

西表島

第4中隊付

軍曹

16

宮島敏明(柿沼秀男)

第32軍参謀部

情報班から

離島残置諜者

与那国島

少尉

17

高谷守典(中島正夫)

多良間島

少尉

18

竹田実(上原敏雄)

久米島

少尉

19

鈴木清十郎(佐々木一夫)

粟国島

少尉

20

斉藤義夫(宮城太郎)

伊平屋島

少尉

21

馬場正治(西村良雄)

第1護郷隊教育係から離島残置諜者

名護→伊是名島

軍曹

22

氏元一雄(深町尚親)

名護→久米島

軍曹

23

河島登(山川敏雄)

名護→黒島

軍曹

24

仙頭八郎(山本政雄)

第2護郷隊教育係から離島残置諜者

名護→与那国島

軍曹

25

酒井喜代輔(山下虎雄)

名護→西表島→波照間島

軍曹

26

北一郎

大本営

陸軍部

直轄

特殊

勤務部隊

(特務隊)

沖縄

本島

剣隊

一ツ岳

中尉

27

若島啓次

一ツ岳

軍曹

28

堀内杉政

一ツ岳

軍曹

29

横田勲

西表島班

西表島

中尉

30

上村司

西表島

軍曹

31

玉川作治郎

西表島

軍曹

32

五十嵐章英

西表島

軍曹

33

西岡栄一

石垣島班

石垣島

少尉

34

松下義明

石垣島

軍曹

35

鈴木民雄

石垣島

軍曹

36

佐々木勝弥

宮古島班

宮古島

中尉

37

成田孝一

宮古島

軍曹

38

野村精一

宮古島

軍曹

39

広瀬日出生

薬丸兼教情報参謀補佐

首里

中尉

40

岡幸夫

第2護郷隊教育係から参謀部

名護→首里

軍曹

41

林三夫

第32軍司令部情報参謀部情報班

首里

少尉

42

浦田国夫

戦闘中に第1護郷隊へ配置

少尉

注:離島残置諜者

上の表には離島残置諜者という言葉が出てきます。

この新しい任務を考えたのは参謀長の長勇で、

細かいことは情報参謀の薬丸兼教だといわれています。

離島残置諜者が配置されたのは、

伊平屋島、伊是名島、久米島、粟国島、多良間島、黒島、

波照間島、与那国島の8ケ所です。

離島残置諜者の任務は

各離島で青少年を教育し、

護郷精神を鼓吹するとともに将来に備えて

遊撃戦ないしゲリラ戦の幹部を養成し、あわせて

少年に遊撃戦闘技術の教育並びに組織作りを行い、

要すれば拠点構築、陣地構築を実施させる」ことでした。

そのために

1 偽名を使い

2 国民学校、青年学校の訓導(教師)という役職だった。

    (島田叡県知事の辞令書持参)

3 大量の爆薬・武器を所持

注:特務隊・剣隊

 上記表の中に特務隊や剣隊という言葉も出てきます。

 大本営特殊勤務部隊のことをいいます。

 敗戦を覚悟した大本営が16の島々に配置した特殊部隊です。

 済州島、父島、母島、聟島、八丈島、硫黄島、対馬、福江島、甑島、

 種子島、奄美大島、徳之島、沖縄島、宮古島、石垣島、西表島

 特務隊・剣隊については良く分かっていませんが証言があります。

 ◎証言 宮城康成

昭和19年10・10空襲のあと護郷隊に入隊した。

教育は名護小学校で受けた。

12月に通信隊に行き訓練を受け、

剣隊に配置換された。

剣隊は北一郎大尉を始め若島啓次、

堀内杉政の3人の陸軍中野学校出身者と

東部軍より転属してきた補佐役の小川晄三、

現地召集の具志川出身のカミダ伍長、

読谷村の山内兵長他4人たち。

そして県立3中生5人合わせて15人だった。

隊長の北一郎は暗号書といって

柳行李に梱包されてぎっしり詰まったものを持っていた。

大本営と直接連絡を、

1日に何時何時と決めてモールス信号で連絡をとってね。

通信をやる人は北一郎、堀内軍曹、若島軍曹の3人だった。・・・・

潜伏していた山小屋も全然分からないように、

掘り起こして上に材木を置いて芝生を植えて。

モ-ルス線は木の枝に這わせて。

だから初めて見た人はそこに何があるかわからないでしょう。

それぐらい丹念に秘密に、

飲み水なんかもずっと離れた所から汲んできて足跡を残さない・・・・

そして私らの任務は、

アメリカに占領されても部隊がなくなっても

3ケ年は生き延びて地下に潜ってでもやりなさいといわれていた。

しかしもう食料がなくなった。・・・・

1945年11月か12月に解散

しかしその後も家に帰れずに任務は継続され、

最後は大湿帯にいたんです。

 

「国士隊」

秘密戦を実行する遊撃隊の補助組織として出来ました。

メンバ-は33人で、内訳は町村官吏6人、

学校の校長教頭11人、県町村議員4人、医師2人で、

まさに地域の有力者が住民を監視する組織を作ったことになります。

●国士隊の秘密文書「秘密戦に関する書類」 原文カナ

 ・・・・隊員は担当地区の一般住民の動向に注意し

 1 反軍、反官的分子の有無

 2 外国帰還者特に第二世、第三世にして

    反軍反官的言動を為す者なきや

 3 反戦厭戦気運醸成の有無

 4 敵侵攻に対する部民の決意の程度

 5 一般部民の不平不満言動の有無 ・・・・を

    隠密裡に調査し報告する事

 

敗残兵同然に山中を逃げ回る日本兵が遊撃戦を理由に食料を強奪し、

拒否するとスパイ容疑で住民虐殺をしたのは、

遊撃隊-国士隊が多く関係してしたと思われます。

 

「義勇隊」

防衛隊の規則では17歳以上をなっているので、

それ以下で学校に行っていない少年を義勇隊として編成しました。

しかし実際には義勇隊も防衛隊も区別はなかったようです。

 

その他、勤労奉仕隊、女子救護班等

ありとあらゆる名目を付けて住民を総動員していきました。