里見機関

政府や興亜院の指導で出来た阿片販売商社である

「宏済善堂」は責任者が里見甫(さとみはじめ)であったことから

里見機関と呼ばれました。

里見のことを書くとかくと長くなりますので避けますが、

大陸浪人のような形で中国の新聞界に身を置き、

その後奉天で関東軍第4課の宣伝工作を担当します。

そこで多くの軍人から信頼を受け、

軍が表面に立てない特殊工作を任せられるようになりました。

 

当時、軍としては昭和天皇がしきりに軍の

阿片への関与を気にする発言をしていたため、

表立った行動は取れず、

隠れ蓑として別機関を作る必要に迫られていました。

丁度その頃参謀本部第8課(注:謀略担当のために出来た課)

課長になった影佐禎昭大佐は信頼厚い

里見甫に裏機関を任せたと言われています。

注:直接関係ありませんが自民党の谷垣禎一氏は影佐の孫に当ります

里見はその後阿片の販売(特にイラン阿片)に力を入れ、

闇の帝王として君臨するようになったのです。

 

アメリカ軍は里見を最重要人物としてマ-クしていました。

敗戦時カバン1つで帰国ししばらく潜伏しましたが、

1946年に民間人A級戦犯第1号として逮捕されました。

しかし何故か無罪放免になりました。

もしかしたら連合国や中華民国も

里見と裏で関係があったとされていますので、

曝露されるのを嫌がったのかもしれません。

里見が無罪放免になったため

膨大な阿片に関する記録は闇に埋もれてしまいました。

里見は1965年に亡くなりました。68歳でした。

 

戦中、中国や満州で活躍した政治家や経済人の

殆どが里見の世話になったといわれます。

そのせいで葬儀は大変盛大で、

日本の政財界を代表する人物が殆ど焼香に来たと言われ

1日では終わらなかったそうです。