三井・三菱の阿片輸入

軍事用・医療用・中国人民に対する販売・・・・の為

いくら生産しても阿片は足りなかったのです。

また満州や蒙彊地区の天候不順で

安定した生産が出来ないため輸入もかなり行なわれていました。

特にイラン産阿片に付いては

三井物産と三菱商事がイランの阿片専売公社から

阿片を買い付ける権利を得るため

激しい競争を繰り広げていました。

 

●中山詳一郎イラン公使から広田弘毅外務大臣に宛てた

   極秘電報 1938年1月25日 (原文カナ)

 本邦向け阿片の輸入に関する当地 三井、三菱出張員間の協定

 本年3月6日までの事態を協定したるものにて・・・・

 右期日到来せば両社の間に

 激烈なる競争が行なわれることは予想せらるるところ、

 しかも相手方は1つの専売公社なるが故に、

 容易に先方のために操らるべく・・・・

 かくの如きは・・・・

 我々に不利なることは両社とも理解はしているらしいが、

 阿片取引は年600万円に上る大取引なる上・・・・

 

その後、三菱商事がイランと独占契約を結んだため、

三井物産は別の独自ル-トで陸軍に阿片を納入しました。

 

1939年3月14日には

三井、三菱の抗争に手を焼いた外務省の調停により

両社協力して買い付けをするという申し合わせが出来ました。

 

●満州国の阿片が不足したため、

 三菱商事は1938年12月13日、

 3000箱のイラン産阿片を輸入する契約をイランと契約し、

 那の方は三井物産が輸入する事とした。

 

三井物産の輸入実績表があります。

●三井物産(株)によるイラン産阿片の輸入

     時期

箱数

ポンド

金額(円)

船舶名

売却先

1938年4月

428

68,480

2,808,000

新嘉披丸

上海維新政府アヘン局

1939年1月初

972

155,520

4,677,264

赤城山丸

 同上

1939年4月26日

1,000

160,000

4,114,286

同上

中支アヘン局

1939年10月

1,000

160,000

4,812,000

多摩川丸

 同上

1940年10月26日

500

80,000

2,469,136

最上川丸

 同上

1940年11~12月

500

80,000

2,291,000

加茂川丸

 同上

合計

4,400

704,000

21,171,686

 

 

注:39年1月と10月の金額は記入されていなかったため、平均値で出しました。

  三菱商事の資料がなく、この一覧表は三井物産のみですから、

  三菱分も入れるとこの倍以上の数字になると思われます。

注:三井物産は1990年10月、当時の「業務日誌」を公開しました・

この輸入は一般の貿易統計には載っていないので、国家ぐるみの密輸入と言うことになります。

 

イラン産阿片は

宏済善堂(注:政府と興亜院が作って里見甫が責任者)が

主として販売し、2000万ドル以上の利益をあげたとされています。

利益は特務機関や興亜院に支払われ戦争遂行資金として使われたのです。

注:東京裁判での里見甫の証言から

当時の為替レ-ト(1ドル=4円)で計算すると8000万円以上です。

当時で8000万以上だと

現在では2000億円位でしょうか?

よく分かりませんが・・・・

戦争が日本に不利になり船で運ぶ事が困難になると、

改めて蒙彊阿片が登場します。

この阿片も三井物産が扱う事になりました。

 

●里見甫の宣誓口述書 極東国際軍事裁判にて

 1939年の末頃には宏済善堂は蒙古アヘンも販売しておりました。・・・・

 大部分は中華航空(株)所有かつ所用の飛行機により運ばれました。

 この蒙古からのアヘンはペルシャアヘンと別途に扱われました。

 東京にある興亜院本部は各支部の

 必要とするアヘンの要求を蒙古(彊)政権に通知しました。

 蒙古政府はアヘンを北支の中央分配地北京、

 中南支の分配地・上海に向け出荷しました。・・・・

 宏済善堂がペルシャアヘンで儲けた利益は

 約2000万ドルにも上りました。

 それは特務部のある間は特務部に、

 それがなくなってからは興亜院に支払われました。

 アヘン分配の方針は南京政府(注:傀儡政権)

 及び興亜院によって決定されました。

 その方針は、

  1.蒙古(彊)政府の歳入

  2.南京政府の歳入になりました。・・・・

 宏済善堂の売ったアヘンの量は1941年に最高に達しました。・・・・

 大体ペルシャアヘン4000函、蒙古アヘン1000万程であったと思います・・・・