興亜院
日本の中国占領地に対する多くの政策の窓口機関として
1938年12月15日に興亜院が設置されました。
●興亜院設置に関する「官制」 勅令第748号 (原文カナ)
第1条 支那事変中内閣総理大臣の管理の下に
興亜院を置き左の事務を掌らしむ
但し外交に関するものは之を除く
注:外交をしないで中国政策とは阿片政策のことです。
1.支那事変に当り支那に於いて処理を要する
政治、経済及び文化に関する事務
2.前号に掲ぐる事項に関する諸政策の樹立に関する事務
3.支那に於いて事業を為すを目的として、
特別の法律により設立せられたる会社の業務の監督及び
支那に於いて事業を為す者の支那に於ける業務の統制に関する事務
注:黄色線は阿片販売の宏済善堂のような会社の事
4.各庁の支那に関する行政事務の統一保持に関する事務
条文には廻りくどく色々書いてありますが、
結局は主として阿片の需要と供給を
コントロ-ルすることが目的だったようです。
日本の阿片政策が国際的に問題になっていたため政府自らではなく、
興亜院という仕組みを作ったのでしょう。
●興亜院の組織 (分かる範囲です)
総裁 首相
副総裁 外相 蔵相 陸相 海相
総務長官 初代 柳川平助(予備役陸軍中将)
政務部 部長 及川源七陸軍中将(1941年4月~1942年12月)
第二課長 塩沢清宣
経済部
文化部
技術部
事務官 板垣修
調査官 山中徳二 白木喬一 永井円信
書記官 愛知揆一(後の外相、蔵相)
華北連絡部
長官 初代 喜多誠一中将(北支那方面軍特務部長)
2代 森岡皐中将
3代 塩沢清宣少将
次長 初代 森岡皐中将
2代 塩沢清宣少将
事務官 川戸定吉
経済第一局長 竹内進平(大蔵省出身)
局員 愛知揆一(後の外相、蔵相)
東条猛猪(後の銀行局長、北海道拓殖銀行頭取)
経済第二局長 湯川元威(後の農林次官)
農林課長 東畑四郎(後の食糧庁長官 農林次官)
石炭課長 山口六平
交通部長 北島熊雄陸軍大佐
蒙彊連絡部
経済部主任 太平正芳(後の総理大臣)
嘱託 松藤
華中連絡部
長官 津田静枝予備役海軍中将
次長 楠本実隆大佐 中支那派遣軍特務部総務班長
次長 及川源七陸軍中将(1940年4月~1941年4月)
書記官 浜田徳治
書記官 北澤直吉(後の代議士)
アモイ連絡部
次長 原忠一海軍大佐
調査官 前田広吉
青島出張所
長官 柴田弥一郎少将
調査官 田口音吉
●興亜院と経済政策の面で協力する形でいくつかの国策企業も出来ました。
興中公司 総裁 十河信二(後の国鉄総裁)
北支開発会社 総裁 賀屋興宣(後の代議士)
興亜院は1939年7月25日、
アヘンに関する打ち合せ項目を決め
次のような需給計画を立てました。
●アヘンに関する打合項目
イ.アヘンは土産をもって賄うを本則とし、
可及的外国産アヘンの依存を避くること。
ロ.差し当たり蒙彊、北支の自給策を確立すること。
ハ.蒙彊における最大生産の確保に努めるとともに、
北支および中支の一部分を補助地域として
栽培又は増産をなすこと。
ただし北支および中支における栽培地の指定については、
諸般の事情を考慮し慎重に決定すること。
ニ.蒙彊阿片の北中支その他への供給に付いては
価格の点に付いて特別の考慮を払うこと。
ホ. 来年度以降の支那における需給を確定し
不足分に付いては満州国に対し増産を要請すること。
興亜院は大東亜省が出来た1942年11月に廃止されました。