台湾での阿片政策
日清戦争で勝利した日本は台湾を領土として
内地並みに阿片を禁止しようとする議論が起きました。
しかし後藤新平の主張によって、
阿片漸禁政策(徐々に禁止する)と専売制度がとられました。
●漸禁政策の主張
阿片を厳禁すると、阿片中毒者に苦痛を与え、その結果反抗を招き、
これを鎮圧する為の兵力と犠牲を必要とするのに対して、
漸禁政策は中毒者に対して人道的配慮を与えるものでさらに
軍事的負担を逃れるうえ、巨額の専売収入を確保できる
1897年10月、台湾阿片令が公布され、
阿片はすべて政府の専売とし、
中毒者と認定された者だけ阿片吸引が許可されました。
しかしながら実際には中毒者でなくても、
20歳以上にはすべて許可が与えられました。
その上中毒者の救済や矯正処置はとられませんでした。
その為中毒患者は増加し、1900年には17万人に達しました。
一方阿片収入は1900年には400万円となり、
台湾財政収入の3割を占めるほどに伸びています。
後藤新平はこの功績で1902年勲二等旭日章を授与されています。
その後阿片の許可料や代金があまりに高くなったことと、
死亡者が増えたことで、
1930年には中毒患者は2万3000人まで減りました。
さらに内外の批判が高まったため
太平洋戦争を境に阿片政策は終わりをつげました。