日本の敗戦、マッカ-サ-の意向と憲法
マッカ-サ-は、戦後のソ連や中国共産党の台頭をいかに押さえ、
アメリカを軸とした戦後世界略をどう作り上げるか、
かなり早い時期から考えていました。
1943年位から日本の戦後統治に関し、
知日(親日とは限らない)学者を集めて
日本軍兵士の尋問や心理分析をしています。
それは戦後の日本統治をどのようにするかという研究です。
●1944年6月5日、マッカ-サ-は軍司令部内にPWB(心理作戦部)を作った
PWBの研究の結果日本人は天皇に特殊な感情を持っており、
アメリカが日本を直接統治することは日本人の反発を招き、
暴動や共産革命の危険があると危惧しました。
そしてすべての日本人を統治することは天皇にしか出来ないと結論付け、
天皇制と行政機能をそのまま残す方針としました。
●1944年12月、日本の戦後占領政策の調整を図る目的で
国務、陸軍、海軍三省調整委員会が出来ました。
(SWNCC・State-War-Navy Coordinating Committee)
アメリカは日本への本土侵攻を目前に控えた1945年4月、
ほぼ1年前に作成した文書「米国の対日戦後目的」をもとに
「初期対日政策の要綱草案」を「三省調整委員会」に提出しました。
●1945年6月11日、米国務省は日本統治に経済条項を追加した。
● 同 7月22日、
マッカ-サ-のPWB(対日心理作戦部)により
「日本の天皇」と言う機密の報告書が作られ、
140人以上の米軍高級将校に配られた。
その報告書には、
たとえ占領されていても日本では天皇の力が絶大なことから、
天皇の戦争責任を免責にし、天皇を通じ日本を間接統治することが書かれていました。
その裏付けになる発言です
●PWB部長 ボナ-・フェラ-ズ
(マッカ-サ-からの言葉として)
・・・・天皇利用策・・・・それは非常に単純だ。
われわれは日本政府を通じてあらゆる命令を出す。
ある人をアメリカ人の目的のために家から追い出せば憤慨する。
しかし天皇の代理人を彼の所に行かせて、それは天皇の意思だと言えば、
その家は占領目的のために引渡されるだろう。
●アンドル-・ロス
(マッカ-サ-の下で対日諜報活動に従事)
・・・・天皇は一般的に言って、他の集団をあやつる道具である。
したがって占領を容易にするために、
われわれの規則を勅令として発布させ、
われわれのために天皇を利用せよ、
と(マッカ-サ-は)提案されているのである。
人民は自分たちの天皇の言うことなら何でも受入れるだろう。
軍国主義者は陛下の文書には反抗できないだろう。
●同 7月26日、ポツダム宣言発表
◎ポツダム宣言(意訳)
署名はアメリカ、イギリス、中国3ケ国です。
1、われら合衆国大統領、中華民国政府主席
及びグレ-ト・ブリテン国総理大臣は、
われ等の数億の国民を代表して協議の上、
日本国に対し今次の戦争を終結するの
機会を与えることで意見が一致した。
2、合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、
西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け、
日本国に対し最後的打撃を加える態勢を整えた。
この軍事力は、日本国が抵抗を終止するまで
日本国に対し戦争を遂行している
全ての連合国の決意により支持せられ、かつ鼓舞されているものである。
3、世界の奮起している自由な人民の力に対する、
ドイツ国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、
日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものである。
現在、日本国に対し集結しつつある力は、
抵抗するナチスに対して適用された場合において、
全ドイツ国民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰させる力に比べて、
測り知れない程度に強大なものである。
われらの決意に支持されたこれらの軍事力の最高度の使用は、
日本国軍隊の不可避かつ完全な壊滅を意味し、
また同様に、必然的に日本国本土の完全な破滅を意味する。
4、無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れた、
わがままな軍国主義的助言者により、日本国が引続き統御されるか、
又は理性の経路を日本国がふむべきかを、
日本国が決定する時期は到来した。
5、われわれの条件は以下のとおりである。
われらは右の条件から離脱することはない。
右に代わる条件は存在しない。
われらは遅延を認めない。
6、われらは無責任な軍国主義が世界より駆逐されるまでは、
平和、安全及びに正義の新秩序が生じえない事を主張することによって、
日本国国民を欺瞞し、これによって世界征服をしようとした
過誤を犯した者の権力及び勢力は、
永久に除去されなければならない。
7、このような新秩序が建設され、
かつ日本国の戦争遂行能力が破壊されたという確証があるまでは、
連合国の指定する日本国領内諸地点は、
われらがここに指示する基本的目的の達成を確保するため占領される。
8、カイロ宣言の条項は履行され、
また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに
われわれが決定する諸小島に局限される。
9、日本国軍隊は完全に武装解除された後、各自の家庭に復帰し、
平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。
10、われは日本人を民族として奴隷化しようとし
又は国民として滅亡させようとする
意図を有するものではないが、
われらの捕虜を虐待した者を含む
一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。
日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する
一切の障害を除去しなければならない。
言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない。
11、日本国は其の経済を支持し、
かつ公正な実物賠償の取立てを可能にするような
産業を維持することを許される。
ただし、日本国が戦争のために
再軍備をすることができるような産業はこの限りではない。
此の目的のため、原料の入手(その支配とはこれを区別する)は許可される。
日本国は、将来世界貿易関係への惨禍を許可される。
12、前記の諸目的が達成され、
かつ日本国国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し、
かつ責任ある政府が樹立されたときには、
連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収する。
13、われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、
かつこの行動における同政府の誠意について
適当かつ充分な保障を提供することを
同政府に対し要求する。
これ以外の日本国の選択には、迅速かつ完全な壊滅があるだけである。
● 同 8月11日、国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、
初期に日本を軍政統治する計画だったのを変更し、
間接統治にする案を発表した。
● 同 8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾、翌日敗戦日。
ポツダム宣言には「民主主義の復活強化」「基本的人権の尊重」
「平和的な責任ある政府」と書かれていたため、
それを受諾したということは憲法を改正することにつながります。
●1945年8月17日、東久邇宮内閣成立。
● 同 8月31日、国務、陸軍、海軍三省調整委員会は新しい方針を発表した。
◎ 天皇を含む既存の統治機構を通じて占領政策を遂行する
◎ 主要連合国間で意見が相違する場合、米国の政策がこれを決定する
しかし戦勝国の中には天皇の戦争責任を問う意見が多かったのです。
アメリカ政府内、オ-ストラリア、ソ連にも天皇の戦争責任の声がありました。
マッカ-サ-としてはそれらの声を何とか押さえ込むために
一刻も早く天皇を中心とした新憲法を作り、
日本は民主国家として生まれ変わったということを
世界に見せる必要がありました。
●1945年9月2日、降伏文書調印で戦争終結。
● 同 9月27日、マッカサ-と昭和天皇が初めて会談する。
これ以降天皇はマッカ-サ-が帰国するまで計11回の会談を行った。
● 同 10月2日、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が設置された
● 同 10月4日、GHQから「自由への指令」通達がだされ、
それに対応できず東久邇宮内閣辞職
この10月4日にマッカ-サ-は近衛文麿と会談し、
憲法改正の必要性を説明しました。
近衛はこれを受けて元京都大学教授の内大臣御用係
佐々木惣一と共に憲法改正の調査を始めました。
●1945年10月9日、 幣原喜重郎内閣成立。
● 同 10月11日、マッカ-サ-は幣原喜重郎に
「憲法の自由主義化」について説明。
● 同 10月25日、国務大臣松本烝治を委員長とする
憲法問題調査委員会が政府に設置される。
● 同 10月27日、政府の「憲法問題調査委員会(通称・松本委員会)」が初会合
午後、東京・永田町の首相官邸会議室で憲法問題調査委員会はスタ-トし、
1946年2月までに総会を含め17回の会合が持たれた。
一応「憲法改正要綱」が松本試案甲としてまとめられ、
後日の修正用として乙案も準備された。
後日甲案がGHQに提出され、拒否された。