極東国際軍事裁判 2

日本側の弁護人側証人の宣誓口述書を

2人を掲載します。

 

● 石射供述書 外務省東亜局長石射猪太郎    

 (1937年)12月13日頃、

 我が軍が南京に入城する。

 その後を追って、我が南京総領事代理(福井淳氏)も

 上海から南京に復帰した。

 同総領事代理から本省への

 最初の現場報告はアトロシテ-ズ

 「それは南京に入城したわが軍による

 強姦・放火・掠奪というようなことを

 含んでおりました」に関するものであった。

 この電信報告は遅滞なく東亜局から

 陸軍省軍務局長宛に送付された。

 当時、外務大臣はこの報告に驚きかつ心配して

 私に対し早く何とかせねばならぬと

 お話があったので、

 私は電信写しは既に陸軍省に送付されている事、

 陸海外三省事務当局連絡会議の席上、

 私から軍当局に警告すべき事を大臣にお答えした。

 この直後、連絡会議が私の事務所で行われ・・・・

 その席上、

 私は陸軍省軍務局第一課長に対し

 右アトロシテ-ズ問題を提起し、

 いやしくも聖戦と称し皇軍と称する

 戦争においてこれは余りにひどい、

 早速厳重措置をする事を切実に申し入れた。

 同課長もまったく同感で、右申入れを受け入れた

 その後いくばくもなくして

 在南京総領事代理から書面報告が

 本省へ到着した。

 それは南京在住の第三国人で組織された

 国際安全委員会が作成した

 我軍アトロシテ-ズの詳報であって、

 英文でタイプされてあり、

 それを我南京総領事館で受付け、

 本省に輸送してきたものである。

 私は逐一これに目を 通し、

 その概要を直ちに大臣に報告した。・・・・・

 

● 岡崎勝男供述書   

    中国駐在の無任所総領事で

    南京での処理に当たった 原文カナ

 南京安全地帯国際委員会は

 同市内において行われたと

 主張せられて居る暴行に関する報告を

 南京駐在の日本領事に行い、

 そして私が南京滞在中、

 同市内の事態についてほとんど毎日

 私のところに話しに来ました。

 福田篤泰氏は当時、

 大使館付の外交官補でありました。・・・・

 南京安全地帯国際委員会の報告は

 南京の日本領事館で受け取りました。

 その報告書の概要は電報で東京に送られ、

 報告書その物もまた郵便で

 東京の外務省に送られました

 

結局反論は反証の書証は僅か8通(内5通は却下)

証人は3人に過ぎなかったので、

法廷はあっけにとられたまま

(児島譲の回想録から)判決に進んだのです。

現在よく言われる虐殺された人数ですが、

実は虐殺の人数を決める事は

検察側の目的ではありませんでした

東京裁判では

非武装化した捕虜や一般市民が

虐殺されたという事実を立証する事が目的で、

100人なのか1万人なのか、10万人なのかといった

数の問題ではなかったのです。

ただし記録として推定総数はあります。

 ◎判決書には10万代の上位のほう     

 ◎判事の見解 総数20万人と思われる。

  多くの団体が埋葬した記録の総数15万5千人

 

1946年4月30日付の朝日新聞に

「第一級戦犯容疑者起訴状」が掲載されました。

 

● 起訴状の第二類殺人の訴因 付属書A [訴因45]

 被告荒木・橋本・畑・平沼・広田・板垣・

 賀屋・木戸・松井・武藤・鈴木及び梅津は、

 1937年(昭和12年)12月12日及び

 その後引き続き・・・・南京市を攻撃し、

 かつ国際法に反して該住民を鏖殺する事を

 日本軍に不当に命じ為さしめ

 かつ許すことにより、

 不法に、目下その氏名及び員数不詳なる

 数万の中華民国の一般人及び武装を

 解除せられたる軍隊を殺害し、殺戮せり

 

● 付属文書A第二節中華民国の

    他の部分に於ける軍事的侵略  

 1937年12月13日頃、

 日本軍は南京を攻略し、

 数万の一般人を鏖殺し、

 かつその他非道なる行為を行いたり

 

東京裁判のキーナン主席検事の

冒頭陳述の要旨が朝日新聞に報道されています。

 

● 6月5日 朝日新聞 

 「残虐無比・南京事 到る處 人命無視の蛮行」      

 南京占領は俘虜、一般人、婦女子

 数万に対する組織的かつ残忍なる

 鏖殺、暴行並びに拷問及び、

 およそ軍事的必要を超えたる家

 屋財産の放埓無差別なる

 大量破壊を特徴として居る。

 この行為は普通「南京掠奪暴行事件」と

 呼ばれて居るが、

 近代戦史においてこれに匹敵する例はない。

 南京は日本人が彼等の侵略計画の一部として、

 その性質と規模において、

 殆ど信じ難いほどの残虐行為を遂行する事により、

 人民の戦意を破摧しようとした

 幾多の中華民国都市中の

 一つに過ぎなかったのである。

 この非人道的な戦闘型式は

 地理的分布および遂行のいずれもが

 極めて普遍的であった為に、

 事実上日本の軍事的侵略の

 凡ての場合を特色づけている。

 阿片が人民の士気を沮喪させ

 彼等の戦意を破摧する武器として

 且日本軍の資金調達の

 収入財源として使用せられた。

 パネイ号、レディバ-ド号

 その他の中立国艦船に対する攻撃も、

 人命及び財産に対する放恣にして

 無謀なる無視の追加的証拠として

 示されるであろう。

 

● 作家・石川達三氏の思い出 

    読売新聞1946年5月9日「語る石川達三氏」

    東京裁判に向けて           

    石川達三は昭和13年3月号の中央公論に

    小説「生きてゐる兵隊」を発表したが

    雑誌は発禁になり、

    石川氏は禁固4年執行猶予3年の刑を受けた。

 ・・・・かうして女をはずかしめ、

 殺害し、民家そのものを掠奪し、

 等々の暴行はいたるところで行われた。

 入城式におくれて正月私が南京に着いたとき

 街上は死体累々大変なものだった。         

 大きな建物へ一般の中国人数千を

 おしこめて床へ手榴弾をおき、

 油を流して火をつけ焦熱地獄中で悶死させた。

 また武装解除した捕虜を連兵場へ

 あつめて実弾の一斉射撃で葬った。

 しまいには弾丸を使うのは

 もったいないとあって、

 揚子江へ長い桟橋を作り、

 河中へいくほど低くなるやうにしておいて、

 この上へ中国人を行列させ、

 先頭から順々に日本刀で首を切って

 河中につきおとしたり、

 逃げ口をふさがれた黒山のような

 捕虜が戸板や机へつかまって川を流れていくのを

 下流で待ちかまえた駆逐艦が

 いっせい射撃で片ッぱしから殺害した。  

 戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に

 逸脱するのはありがちのことではあるが、

 南京の場合はいくら何でも無茶だと思った。

 三重県からきた片山某という従軍僧は

 読経なんかそっちのけで殺人をして歩いた。

 左手に数珠を持って民家にとびこみ、

 にげまどう武器なき支那兵をたたき殺してあるいた。

 その数は20名を下らない。

 彼の良心はそのことで少しも痛まず、

 部隊長や師団長のところで自慢話していた。

 支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし

 女も勝手に出来るという考えが、

 日本人全体の中に

 永年培われてきたのではあるまいか

 ただしこれらの虐殺や愚行を

 松井司令官が知っていたかどうかは知らぬ。

 「一般住民でも抵抗するものは

 容赦なく殺してもよろしい」という命令が

 首脳部からきたという話を聞いたことがあるが、

 それが師団長からきたものか

 部隊長からきたものなのかそれを知らなかった。

 何れにせよ南京の大量殺害というものは

 実にむごたらしいものだった。

 私たちの同胞によってこのことが

 おこなわれたことをよく反省し

 その根絶のためにこんどの裁判を

 意義あらしめたいと思う。

 

1946年7月26日、

目撃者としてロバ-ト・ウイルソン医師が

法廷証言をしました。

そのことについて読売新聞の社説です。

 

● 1946年7月31日 読売新聞社説(若干読み易くしました)      

 南京暴行事件は、当時従軍したものならば

 多かれ少なかれその事実を知っているであろう。

 「聖戦」といいながら侵略戦争を強行し、

 一時的な「勝利」ののちに行なわれた

 数々の蛮行を目撃しながら、

 しかもなお「皇軍」と言い、

 そのような蛮行が戦争には不可欠なものとして、

 高いヒュ-マニティにみづから目隠しをし、

 敢えて直面し得なかった

 われわれ報道陣の罪は決して軽いものではない。

 あのような蛮行を敢えてしながら

 「中国民衆を敵とするものにあらず」という声明を

 押しつけようとした無理は、

 その後のあらゆる対華施策の

 矛盾となってあらわれているのだが、

 何よりも中国民衆に対日敵意を植え付け、

 その敵意が十数世紀にわたる日華国交史に

 いまだかってみなかったほどの

 深刻無残なものとして尾を曳いた

 われわれは南京暴行事件を中心とする

 軍閥蛮行の拭うことの出来ない

 歴史的罪悪を認めずにはおられない。