タイムス(ロンドン・タイムス)の記事

コ-リン・M・マクドナルド・特派員

●1937年12月18日 土曜日 

   特派員 上海 12月17日      

「残酷な捜索」

 月曜日朝、日本軍は何らの抵抗を

 受けることなく、ゆっくり北上を続けた。

 しかし、組織的な掃討はすでに開始されていた。

 中国兵が市内を徘徊していたものの、

 事態は収拾したものと外国人は考えていた。

 安全区に逃げ込む者には

 武器を棄てるよう伝えてあるので、

 放棄された軍服や武器が、

 燻り続ける交通部のまえに

 うずたかく積み上げられた。

 膨大な中国人の群集と、

 一握りの外国人たちは、

 日本軍の到着により混乱は

 収まるものと期待していたが、

 侵入者による猛烈な掃討作戦が開始され、

 その期待は打ち砕かれた。

 中国兵は恐怖にかられて逃げ回り、

 負傷者が救助を求めて地面を這うさまは

 一層戦慄を深めた。

 月曜日夜、日本軍は中山門を開き、

 勝利の入城を行ったが、

 軍馬の不足から、牛、ロバ、ねこ車を使い、

 はては壊れた馬車まで調達していた。

 その後、日本軍は安全区に入り

 戸外で捕らえた中国人を

 理由もなくその場で銃殺した

 火曜日、日本軍は中国兵と

 全く関係のない者を組織的に捜索し始めた。

 そして兵隊の嫌疑をかけられた人を

 難民キャンプから連行し、

 また路上を徘徊している

 中国兵を残らず捕らえた。

 日本軍に進んで投降したであろう

 このような兵士を、

 見せしめとして処刑したのである。

「看護婦からの強奪」

 慈悲などというものは、微塵もない。

 中国人の期待は不安となり、

 さらには恐怖へと変わっていった。

 日本兵は住宅を軒並み捜索し、

 目抜き通りに面する家からは、

 根こそぎ略奪を犯し、商店に押し入り、

 腕時計、柱時計、銀食器など

 持てるものは一切持ち出し、

 この略奪品の運搬を苦力に強制した。

 さらに、大学病院に来ては、

 看護婦から腕時計、万年筆、

 懐中電灯を奪い、建物をくまなく荒らし、

 そして車についているアメリカ国旗を

 剥ぎ取って車を奪っていった。

 外国人の住宅にも侵入し、

 イツ人経営の店も略奪にあっている

 武装解除した中国兵に同情すれば、

 日本兵を怒らせるだけで、何の益にもならない。

 兵士だったと思われる若者や多数の警官が

 一堂に集められて処刑されたのが、

 後死体の山となって確認された。

 通りにも死骸が転がっており、

 その中には罪も無い老人のの死体があった。

 しかし、婦人のそれは見当たらなかった。

 下関門には人馬の死骸が4フィ-トの厚さにつもり

 その上を自動車や貨物が往来して門を通行している

 掃討作戦は水曜日一杯も続き、

 記者を含むパナイ号の生存者が

 南京市内を通過した時は、

 依然、恐怖を押し殺しているような状況であった。

 安全区国際委員会が最も信用できた

 爆撃中は少しも臆せず、己の安全は顧みずに、

 休戦の交渉には骨身を惜しまなかった。

 中国の行政機関が崩壊してからは、

 南京の安全に寄与できるものは

 委員会だけであった。

 委員会の存在がなかったならば、

 破壊、処刑はいっそう大きなものと

 なっていたであろう。