松岡 環氏の聞き取り調査 1
前項目と同様第16師団ですが、
今度は同じの元兵士達からの
聞き取り調査を掲載します。
小学校教員の松岡 環さんは
仕事のかたわら膨大な証言記録を集めました。
他の証言と重複するところも
あるかと思いますが、
第16師団を中心に証言をいくつか転載します。
証言内容は3回に分けて書きます。
「福田治夫」 1915年10月生まれ
第16師団の歩兵第9連隊第2大隊
1997年10月取材
◎南京近くでは
1週間ほどして南京から
いくらか離れた南西方向の
裕渓口に駐屯しました。
子どもとか年いったお婆さんまで、
抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、
宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、
こっちは油断しますわな。
寝ているところに放り込まれるのが再々あってね。
「子どもにしても年寄りにしても
誰でも全部殺してしまえ」と
連隊長の命令が出ました。
ぐるりにいる人間を見れば
発砲して殺しました。
2人とか3人とかの百姓を捕まえてきて、
「そこらに兵隊はおるんかおらんのか」などの
尋問をして地形を聞いて、
後は殺してしまうんです。
クリ-クの縁に連れ出して、
そこに座らせてました。
将校は、めったに刀で首切りなんて
できへんのやから、
軍刀持ってるさかいに試し切りするんです。
私ら兵隊は突き殺しました。
鉄砲の弾できるだけ
使うなといわれてました。・・・・・
そのときは気がたってますわな。と
いうことは気が狂ってるということですな。
戦争は誰もかなわんけど、
行け言われたら
行かなしゃあないことですわな。
侵略戦争で何もかも侵略したんですわ。
私も戦闘の直後は何くそっと
突いたりできますけど。
1日か2日たつと、
後で普通になってああいうことは
絶対できへんのですわ。
そやから人を突いたことは
なるべく思い出さんようにしていました。
でも、今でもちょっとした機会に
殺した場面が思い出されます。
「町田義成」 1913年生
第16師団歩兵第33連隊第3大隊
1997年8月、99年4~5月取材
◎敵襲の報復に近くの部落の母子を射殺
・・・・韓家頭ではやられたので、
部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。
部落に入ったら、猫の子でもいいから
生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と
命令が出ました。・・・・
粗末な一軒の農家の中のアンペラが
コソコソ動くのでめくり上げると、
40歳位の妊婦が2人の幼児を
両脇にだきしめて隠れていました。
コノ-と引きずり出すと、
子どもは泣き叫び母親の後ろに
しがみついている。
母親はもう一人の子を
クリ-クの中につっこんだ。
××伍長がこれこそ戦友の仇と、
即座に銃で3人を撃ち殺してしまった。
そのときは気が立っていたというか、
女子どもなのにひどいことをしました。・・・・
◎揚子江に逃げる無数の中国人を殺す
もう抗戦する力もなく銃も持たず、
小さな木っ舟や筏や材木を拾って、
それに掴まって揚子江を下っていく。
5~8人乗っている小さい舟も、
30人くらいの船もあってね。
船には女や子どもの姿も見られ、
こちらに向かって抵抗することは
ありませんでしたな。
すぐ目の前の2~30メ-トル先に逃げる敗残兵を、
こちらにいる日本兵は、
みんな機関銃や小銃でバリバリと一方的に撃つんや。
舟や筏には、普通の服を着た中国人が、
小さくじいっとして乗れるだけ乗って
どんどん河を流れていく。
命中すると舟はひっくり返って、
そこらの水は血で赤く染まっていました。
舟の上の人間は撃たれて
河に飛び込み落ちるのもありますわな。
銃声に混じってすさまじいヒャ-ヒャ-という
断末魔の叫び声が聞こえてな。
水の中でもがき浮き沈みする人が流れていきます。
自分の機関銃分隊は、
他の中隊と共に撃ちまくった。・・・・
◎当時町田氏が故郷の婦人会に送った手紙
特に12月13日午後、
敗残兵が逃げる途なく、
小舟に乗って揚子江を流れのままに降りる事
その数実に5万
我が軍、機を逸せずこれを全滅
思はず万歳を高唱致し候
◎難民収容所から屈強な男を引出し殺す
部隊からの命令では
「敵兵とわかったら容赦なく突き殺せ」と
命令が出ていた。・・・
目つきの悪い奴とかちょっと
足の裏を見て丈夫やったら兵隊で。
そういう不確かなことをして
ひっぱりましたんでな、
それにひっかかった者は運が悪いわな。
いい加減な方法でした。
オイッオイッと指で指し示し瞬時のうちに
怪しそうな者を選び出してね。・・・・
それぞれの分隊は、
男たちを収容所から外へ引き出して
みんな突き殺しました。
殺されるかどうかは運ですな。
◎城内で死体の片づけ
15~6日ごろ、
挹江門を入った所の大きな道路、
中山北路付近の死体の片づけをしました。
先に他の部隊が沢山作業をしていて
すでにほとんど片付けがすんでいました
死体を持ち上げトラックに積み込むと、
他の部隊がどこかへ運びまた戻ってきました。
多分死体を河に流したんでしょうな・・・・
南京城内でも城外でも、徴発はよくやりました。
食べ物を盗りに行くんですわ。
分隊で2~3人で固まって行きました。
ついでに女の子を捕まえるんです。
女の子の徴発ですな・・・・
「平山仁三郎」 1914年10月生
第16師団歩兵第33連隊第3大隊
1998年取材
南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、
2大隊も3大隊もいたわ。
揚子江を河一杯に中国人が
筏や戸板につかまって流れていく。
大きいのには60人位かな、数人のもあったな。
目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。
筏に乗っている人には黒い服を
着ているのもいたから、
城内から逃げていった支那兵やろ。
揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。
我々が陸上からバリバリ撃つし、
軍艦からは砲撃するし、
2~3時間は撃ってたかな、
流れる血で揚子江は血の色やった。
南京が陥落して、すぐに掃討に入った。
13日14日と城内掃討をやった。
挹江門から入った時、死体をようけ見た。
死体が5~6尺に重なっていて、
私らの一個分隊だけで、
一日目の掃討戦で・・700人捕まえたな。
重砲を積んだ馬車がその上を通る。
わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで
城内へはいった、ぎょうさんやで。
すごい数や。・・・・
「古川康三」 1912年12月生まれ
第16師団歩兵第33連隊第2機関銃中隊
1998年11月取材
◎下関で捕虜を集団虐殺した
紫金山から下りてきた中隊は
南京へ集結して一応落着いて、
2~3日してから、「使役」と言う
敗残兵の整理の任務を命じられました。
重機関銃を担いで行ったんです。
下関の揚子江の端の貨物駅でね、
ずらっと並んでいた貨車の中へ
中国の兵隊を貨車に詰め込んでいましたんや。
貨車の扉を開けるとあまりに
人を詰め込みすぎたんですやろな、
冬の極寒の時なのに、
皆暑くて息苦しくて自分の衣服を
脱ぎ捨てて素っ裸になっていました。
それが記憶にありますな。
フラフラに弱った裸の兵たちを
下ろして揚子江に流れていく筏に載せ、
それを重機関銃で射撃したんですわ。・・・・
至近距離で機関銃撃つんだから必ず当ります。
それで、撃った時に苦しみで
河に落ちると思いますわ。
筏は誰が作ったものかわからんが、
大隊本部から私らの第2機関銃中隊に
命令が来て、中隊長の命で使役に出たまででした。・・・・
使役は2~3回ありましたが、
どれも貨物車から引き出した敗残兵を筏に載せ、
河に流してから自分が小隊を命令して
重機関銃で撃ち殺しました。・・・・
機関銃で撃ち殺した敗残兵は、
兵隊であるか民間人であるか
区別はつかなかったです。
裸になっておるし、・・・・
敗残兵であるか農民であるか
はっきり分からなかったですな。
けど、一応はもう敗残兵という格好で
処分したんでしょうな。
「吉川定国」 1915年9月生
第16師団歩兵第33連隊第1機関銃中隊
1998年4月取材
・・・・上陸のとき命令受領に行ったら
「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで、
家を焼けとの命もあって、
うちの中隊でも放火班があったで・・・・。
「佐藤睦郎」 1914年12月生
第16師団歩兵第33連隊第1機関銃中隊
1999年1月取材
◎下関の手前まで来た時は、
もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた
中国兵が右往左往していました。
中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、
歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣持って
大きな道を通って下関に向うんですわ。
攻め込んでいくと、
大きな道路に飛び出してきた中国兵が
群れになってまた逃げて行くんです。
わしら、日本兵は撃たなしゃあない。
逃げるのは兵隊だけやない。
男の子もおれば女の人もおる。
若い衆もおる。
そんなものお構いなしに
めくらめっぽうに連続発射で流すんやから、
角度を決めて左右にス-っと流すんやから。
もう前方で人間を見たら、
重機をパッと組み立てて全部殺すんや。・・・・
エンジンのないような櫓で
こぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。
いっぱい人が乗っててね、
それを撃つんですわ。
中には普通の服着てる良民もいる。
それを全部ダダ-と撃った。・・・・
向う岸へ逃げ切れなくて人間の固まりとなって
壁に集まってきていますんや。
もう何千という人の数や、
そこに向けて今度は、
誰彼なしに92式機関銃を撃ちこんだんです。
押しまくりました(注:押すと発射する)。
港にぎっしりと集まった大勢の人は、
女も子どもも年寄りもいましたわ。
400~500メ-トル向うにいる中国人たちに
射撃の角度を考えて、
範囲を決めて撃ちました。
人の固まりが崩れていくんですわ。
我々はただちに小隊長から
「撃て」との命令を受けたけど、
(中国人なら誰でも殺すという)命令は、
師団長が出したですやろな。・・・・
その次の日、松井司令官が来るというので、
こんなに殺したらあかんという規則があるのか、
たくさんの死体を今度は隠さないと
あかんというようになりましたんや。
死体を埋めることになりました。
焼くということもありました。・・・・
南京陥落の次の日でしたけど、
南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。
兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、
倉庫に詰め込んでるんです。
中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、
ぐるりに燃える物持ってきて
積み上げて火をつけたんです。
煙が充満してきてね。
中国兵が屋根を突き破って必死になってる。
それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。
そんなのを見ました。・・・・
「田中次郎」 1908年2月生
第16師団歩兵第33連隊第1大隊
1998年3月取材
◎田中日記より
12月14日
一小隊が200名位の敗残兵を捕虜にした。
彼らは南京陥落を知らずに
逃げてきたものであろう。
之をいかに処置するか大島副官に聞きに行った。
「200あろうと、500あろうと
適当なところへ連れて行って
殺してしまえ」と言われて
駅の空貨車に詰め込んでしまった。
小隊は重機と協力して捕虜の処分を
揚子江岸でやることになった。・・・・
貨車倉庫から皆引き出してしまった。
膝を没する泥土の中に
河に向かって座らせた1200人、
命令一下、後ろの壕に秘んでいた
重機で、一斉に掃射を浴びせた。
将棋倒し、血煙肉片、綿片、飛び上がる。
河に飛び込んだ数十名は
桟橋に待っていた軽機の側射によって
全滅し濁水を紅に染めて斃れてしまった。
ああ、何たる惨憺たる光景ぞ。
かかる光景が人間世界に
又と見られるであろうか・・・・
◎南京城内での掃蕩
12月14日、揚子江岸で捕虜を
1200人いっぺんに処分しました。
日記に書いているように惨い事ことでした。
遺棄された手榴弾も武器も
ざらに落ちていて、拾っていたんですわ。
手榴弾は信管を引き抜き、
掃討する家の中に次々と
手当たり次第投げ込みました。
捕虜狩りの時は人数を数える暇もなく、
どんどん捕まえました。
捕虜と言っても中国服着た男ばっかりでしたよ。
掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってです。
注意事項と言うものはなく
「戦争に耐えると思えるような者は
全部殺してしまえ」と
上部の命令として言われていました。
実際、男を敵兵として捕らえ、
一人一人を調べることなどしませんでした。
おとなしく投降しても、
中国人は全部殺してしまう。
手榴弾は家の中に放り込むだけでなく、
捕虜の処分にも使っていました。
城内あちらこちらで
手榴弾の爆発音がしていました。
たくさん倉庫に詰め込まれた捕虜は
どうなったのかわかりませんが、
最初自分たちがあんなたくさんの捕虜を
全員撃ち殺したことから考えたら、
捕虜は処分されたのだと思います。