第16師団の記録 1

南京戦の証言を聞くと、

「京都師団はひどかった」という話を聞きます。

京都師団の正式名称は第16師団です。

青木書店出版の「南京事件 京都師団関係資料集」から

少し抜粋して転載します。

有名な師団なので、

内容的にはこのホームページの各所に

証言内容が重複して出てきますが、ご容赦下さい。

 

第16師団の編成については

「南京戦に参加した日本軍」を参考にしてください。

個人の陣中日記や手記等を、

2回に分けて書きます

 

「東日記」      

    

   第16師団第20連隊第3中隊上等兵(分隊長)

10月11日頃

 師団長は女、子供に至るまで殺してしまえと

 言っていると云うことだった。

 我々は片端から住民をつまみ出して来た。

 連隊長大野大佐は住民を殺せと命令した。

 敵の居た部落であるが故に、

 住民は敵に加担しているものと

 断定されたのだ。

 広場に30数名が集められた。

 彼らは完全に観念していた。

 逃走しようとも、哀願しようともしなかった。

 ヤッ、と云う突刺の気合と、

 血潮を吹き出すうめきと、

 断末魔の低い地獄の悲鳴とが交錯した。

 血潮は彼等の胸にあふれ地面に這い、

 凄惨が漂い、銃剣が電光のように光り、

 突刺せられた住民達の目玉が鋭く光って、

 全く地獄図絵を現出した。

 1人の老人と、1人の子供が連れて来られた。

 子供は刺し殺された彼の一族の痛烈な

 うめき声を聞き、

 惨酷な血を見て恐怖に戦いた。

 老人はおろおろと子供を防御するように、

 身代わりになるように、ひしとかき抱いた。

 此処では、生命は塵芥ほどの

 値打ちしかなかった。

 ヤァ、鋭い気合と共に子供と老人は殪れた。

 おゝ何たる事だ!

 言い知れぬ熱愛と苦痛の表情で

 老人は最愛の孫の或は子の

 血をすすっているではないか!

 子供の胸からあふれ出る血を、

 ずうずう吸っている老人。 

 何のために?何故?

 それほど彼は子供を愛し、

 消えゆく生命がいとおしいのだ。

 惨憺たる崇高!建設への犠牲か。

 破壊故の犠牲か。

 これが戦争のあるが儘の姿だ。

 これが戦争の感傷だ。

 此の言い難い悲惨は電光のように

 我々の胸を打った。

 子供の鮮血は老人の口から吸われて行く。

 子供の生命を老人の生命の中に

 生かそうとするが如くに。

 子供の残り少ない生命は痙攣し

 最後の一呼吸が来て、死神が肉体を覆った。

 ヤァ、老人が刺された。

 刺した兵士はあまりにも強い兵士だ。

 老人はウウ・・・・とうめいて、

 彼が、己が血の中で生かそうとした

 子供の赤い生命と共に、

 己が赤い年寄った生命を噴出した。

 30数名の死骸が無慙に重なっている。

 人間屠殺工業!彼らは忠実なる職工だ。

 死は至る所に骨の種をまき散らしている。

 種をまかれた所に死が芽生える。

 残酷獰な殺戮が終った。

 再び前進だ。   

11月24日    

 少尉(梅原)は家の中を探して

 怪しい者の居ないのを確かめると

 出て行きかけて、

 「此の部落民も隣村のように

 皆殺しにするんだ。

 隣村では3才の童子も殺した。

 用事が終ったら逃がさぬようにしておけ。

 明朝は全部息の根を止める!」

 少尉はこう憎らしく言いすてると

 軍刀をガチャリとならして出て行った。

 何のためにかような女子供を殺すのだろう。

 乳呑児を抱きいだきふるえる女達を

 殺したとて何の得があるのだ。

 さっきも、木に縛られた男が

 銃剣で突かれ悲鳴をあげ血を吹いて

 血にまみれた様を見て、

 7~8つの児が火のついたように

 泣き叫び打ち震えていた・・・・   

12月5日頃    

 それから直ちに部落に火を放って

 次の部落へ出発した。

 放火する、という事は此頃の我々には

 何でもない事であって、

 子供が火遊びをするよりも

 面白がってやるのである。

 「オイ、今日はさむいね」

 「じゃ一軒も焚やしてあたろうか」

 これが今日の私達なのだ。

 私達は殺人鬼であり放火魔である・・・・   

12月6日    

 私達は宿営するに当って

 先ず部落を掃蕩し、農民を殺して寝た。

 農民の死が私達の睡眠の安全を

 保ってくれるのだ。

 私達が僅か夜の明けるまでの

 3時間程を安眠する為に

 多数の農民の血が犠牲にされる。

 これも亦戦場の悲惨な姿だ。   

12月16日    

 私達が広場に集合して

 歩哨配置から宿舎割に時を過しているうちに、

 突然捕虜収容の命令が来た。

 捕虜は約2万人だという。

 私達は軽装で強行軍した。

 夕暮が足元に拡がりやがて

 夜の幕が下りすっかり暗くなって

 星がまたたいても歩いていた。

 3~4里も歩いたと思われる頃、

 無数の煙草の火が明滅し

 蛙のような喧騒をきいた。

 約7千人の捕虜が畑の中に

 武装を解除されて座っている。

 あり合せの白布をあり合わせの

 木枝に結びつけて、降参するために

 堂々と前進して来たであろう様を

 想像すると、おかしくもあり哀れでもある。

 我々は2ケ中隊いたが、

 もし7千の彼らが素手であるとはいえ、

 決死一番反乱したら2ケ中隊の兵力は

 完全に全滅させられたであろう。

 我々は白旗を先頭に

 4列縦隊に彼らを並べ、

 所々に私達が並行して前進を開始した。

 捕虜の収容を終った私達は、コ

 ンクリ-トの柱と床だけ焼け残った家に

 宿営する事になった。

 翌朝私達は郡馬鎮の警備を命ぜられた。

 私達が郡馬鎮の警備についている間に、

 捕虜達は2~3百人あて割り当てられ

 殺されたという。

 何故此の多数の捕虜が殺されたのか

 私達には解らない。

 然し何となく非人道的であり、

 悲惨な事に思えてならない。

 私には何となく割り切れない

 不当な事のように思える。

 7千の生命が一度に消えさせらたという事は

 信じられないような事実である。

 戦場で命なんていうものは、

 全く一握りの飯よりも価値がないようだ   

12月21日    

 道路の向う側に沼があった。

 何処からか1人の支那人が引っぱられて来た。

 戦友達は、仔犬をつかまえらた

 子供のように彼をなぶっていたが、

 橋本は残酷な一つの提案を出した。

 つまり、彼を袋の中へ入れ

 自動車のガソリンをかけ

 火をつけようというのである。

 泣きさけぶ支那人は

 郵便袋の中へ入れられ、

 袋の口はしっかり締められた。

 彼は袋の中で暴れ泣き怒鳴った。

 袋はフットボ-ルのように蹴られ、

 野菜のように小便をかけられた。

 ぐしゃりつぶれた自動車の中から

 ガソリンを出した橋本は袋にぶっかけ、

 袋に長い紐をつけて引きずり

 廻せるようにした。

 心ある者は眉をひそめて

 此の惨酷な処置を見守っている。

 心なき者は面白がって声援する。

 橋本は火をつけた。

 ガソリンは一度に燃えあがった。

 と思うと、袋の中で言い知れぬ

 恐怖のわめきがあがって、

 渾身の力で袋が飛びあがった。

 袋は自ら飛び上がり自ら転げた。

 戦友のある者達は、

 此の惨虐な火遊びに打ち興じて面白がった。

 袋は地獄の悲鳴をあげて

 火玉のように転げまわった。

 袋の紐を持っていた橋本は、

 「オイ、そんなにあつければ

 冷たくしてやろうか」と言うと、

 手榴弾を3発袋の紐に結びつけて

 沼の中へ放り込んだ。

 火が消え袋が沈み波紋のうねりが

 静まらろうとしている時、

 手榴弾が水中で炸裂した。

 水がごぼっと盛りあがって静まり遊びが終った。

 こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。

 ただ橋本の残忍性に私達があきれただけである。

 次の時間には此のような事は

 少しの記憶も残さず鼻唄を唄って

 歩いている一隊であった。   

1938年1月21日    

 夜がすっかり明けた。

 夜が明けると、私

 達の眼前にセイサンな光景が展開した。

 岸壁に牛や豚のように

 虐殺され放り込まれた敵兵の死体

 私達が今日まで、

 常に見かけた特有のドス黒い色の死体、

 はち切れる程空気を入れたかと思われる程の、

 ボウ張しきってふくれ上がった黒い死体が、

 揚子江のなぎさに山となって転がっている。

 全くよく肥えた豚のような死体だ。

 此の汚ない黒い死体の上を、

 黄色い河水がひたひた洗っている。

 或る死体は流された丸太棒のように

 水にゆられている。

 或る死体は連絡船の下敷になっている。

 兵士達は、踏めばぐしゃりと腐った

 泥の臭いのする臓物の出て来そうな

 はれあがった死体の上を、

 飛石でもあるかのように、

 鉄のビョウの打った堅い靴で

 ポンポンポンと飛んで連絡船に乗る。

 水上工兵達は、ボ-トの上から

 長い柄の先についた鉄の鉤に、

 これらの死体を腐った大根にでもするように

 グイと引っかけて、沖へ流しに行く。

 ハレもののように体全体が

 むくみあがった死体に、

 工兵たちの鉤がぶすりと刺し込まれ、

 1人の工兵が1ケづつ、

 計5ケがボ-トに引っぱられて行く。

 岸壁に1人の兵士が立っていた。

 彼は毎日トラックで一杯、

 敗残兵を積んで来た奴を、

 波止場にずらりと並べておいて、

 河の中へ突き落し、

 泳ぐ奴をズドンズドンと射ち殺すのだ。

 これが俺の毎日の仕事だよ、と

 グッと顎をしゃくって言った。

 嫌な仕事だ

 

「増田日記」      

   増田六郎 

   第16師団第20連隊第1大隊第3中隊第2小隊 

   伍長

12月14日    

 外国租界に入り避難民中に混りて居る

 敗残兵を掃蕩す。

 第4中隊のみにても500人を下らず。

 武門側にて銃殺せり。

 各隊にても又同じと云う。   

12月17日    

 出発し白水橋に帰り

 1週間の予定にて駐屯勤務 

 敗残兵の掃蕩を行う。

 多数の捕虜広場に居るを見る

 

「増田六郎の手記」   

 中山門を逸早く占領して武名を輝したる

 大野部隊(歩兵第20連隊)の花形たる坂隊は、

 午後1時犠牲者の遺骨を抱き

 血達磨隊長(注:第20連隊第4中隊坂清中尉)を

 先頭に堂々と入城したのであった。

 中隊は息つぐ遑もなく田中少尉指揮の下に

 城内の敗残兵掃蕩を開始した。

 中山門を入って5~600米の

 南京大衆病院に這入った。

 鉄筋コンクリ-トの4階建ての

 立派な建物が幾棟もある

 実に立派な広壮な病院だ。

 之は上海、常熟、無錫方面より後送されたる

 戦傷患者を収容して居た所である。

 各分隊ごとに一団となり、

 一兵たりとも許さじと意気込んで踏込んだが、

 其処には血まみれの軍服や

 破れた帽子や毛布等があるばかりであったが、

 憎き支那軍の収容所であっただけでも腹がたつ。

 戸棚と云わず机と言わず

 手当たり次第に打ち壊した。

 薬棚、器具、函時計等の硝子戸も破壊した。

 色々の写真標本の類も、

 ことごとく銃剣で突き出した。

 明くれば14日、

 今日は国際委員会の設置して居る

 難民区へ掃蕩に行くのである。

 昨日まで必死で抵抗して居た

 数万の敗残兵は八方より包囲され

 唯一人も逃げていない。

 結局此の難民区へ逃込んで居るのだ。

 今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、

 亡き戦友の恨を晴らしてやろうと

 意気込んで配置に付いた。

 各小隊に分れてそれぞれ複雑な支那家屋を

 一々索して男は全部取調べた。

 其○○大きな建物の中に

 数百名の敗残兵が軍服を脱いで

 便服と着換えつつある所を

 第2小隊の連絡係前原伍長等が見付た。

 傍には小銃、拳銃、青龍刀等兵器が

 山程積んであるではないか。

 軍服のままの者もあれば、

 早くも支那服に着替えて居る者もあり、

 又下に軍服を着て上に

 支那服を纏って居る者もあるが、

 何れも時候はずれのものや

 不釣合の物を着て居るので、

 俄拵である事が一目で解った。

 片っ端から引張り出して

 裸にして持物の検査をし、

 道路へ垂下っている電線で

 引くくり数珠つなぎにした。

 大西伍長、井本伍長を始め

 気の立って居る者共は

 木の枝や電線で力任せにしばき付け乍ら

 「きさま達の為に俺達は此んな苦労を

 しているんだ、エイ」シャン、

 「貴様等のためにどんなに多くの戦友が

 犠牲となっているか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。

 「貴様等のためにどんなに多くの国民が

 泣いてるか知れんのだぞ」エイ。

 ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、

 ポン「こら此の餓鬼もだ」ポン、

 素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、

 しばく、たたく、思い思いの気晴をやった。

 少なくとも300人位は居る、

 一寸多すぎて始末に困った。

 夕刻迫るころ600人近くの

 敗残兵の大群を引立てて

 玄武門に至り其の近くで

 一度に銃殺したのだった。