安全区の記録・メンバ-の日記、手紙など 2

「マギ- Jon G.Magee」

  1884年ペンシルヴァニア生まれ。

  1911年ケンブリッジの

  聖公会神学校で学位を得る。

  翌年牧師として中国に赴任。

  国際紅十次会南京分会の委員長となり

  国際委員会の委員を務める。

  マギ-が撮影した南京の

  証拠映像は貴重な資料である。

  東京裁判にも証人として出廷した。

◎夫人への手紙から     

1937年12月19日、日曜日       

 この1週間の恐怖はこれまでに経験した事がない。

 日本兵がこんなに野蛮だとは

 夢にも思っていなかった。

 虐殺に強姦の1週間だったんで、

 これ以上にひどいことは、

 人類史上でも長いこと起こってなく、

 トルコ人によるアルメニア人の

 大虐殺くらいしか匹敵するものはないと思う。

 日本兵は見つけた全ての

 捕虜を虐殺したばかりか、

 あらゆる年令の一般市民を

 大量に殺害したのだ。

 ちょうど野外うさぎ狩りでもするように、

 多くの人々が街で日本兵に

 気ままに撃ち殺された。

 城南から下関まで、

 町全体がいたるところ死体なんだ。

 ついおととい哀れな人が

 私の住まいのすぐ近くで

 殺されるのを見かけた。

 中国人の多くがとても臆病で、

 ちょっとでも日本人を見ると

 すぐに逃げようとし、

 この人がまさにそうで、撃ち殺されたんだ。

 後でコ-ラがそこに見に行ったが、

 頭に2発撃たれていたと言う。

 その2人の日本兵はずっとタバコを

 吸いながらしゃべったり笑ったりしていて、

 中国人1人殺すのも、

 まるでネズミ1匹殺すみたいだった。

 陳の上の息子の16歳の陳昌が

 私の住まいの近くから

 500人位の人と一緒に捕まって行った。

 またその一団には四所村の

 キリスト者も11人いるんだ。

 その人たちの名簿を

 最近南京に来たばかりの田中総領事に渡した。

 火曜日の晩(12月14日)、

 私は2組の大集団に行き遭った。

 人数がすごくて、ざっと5,000~6,000はいた。

 何日も私たちは機関銃の音を聞き、

 この5000~6000人ばかりではなく、

 街のほかの所でも多くの人たちが

 銃殺されている。

 どの位の人が銃殺されたか

 算出できる方法はないが、

 私の推定では街で殺された人も含めて、

 全部で2万人以上だ。

 もっと多いかもしれないし、

 いささか少ないかもしれない。・・・・

 きのう私は新しく来た日本の田中総領事と

 一緒に下関へ行った。

 外国の財産に通告を貼って、

 日本兵にはっきり分かるようにするためらしい。

 (注:何の効果もなかった)・・・・

 丸々1週間、日本兵は南京で

 手をつけられる限りのものを掠奪し、

 ドイツ大使館の自動車までも掠めていき、

 何度かはアメリカ大使館にも入り込んだ。

 日本の将校も略奪に加わっていた。・・・・

 恐るべきことが街全域で発生している。

 これらのことをアメリカから

 来たばかりの日本の総領事に話したら

 彼は「それは避けられないんですよ」と言った

 そして今日朝日新聞の記者に話したら

 彼も「それは避けられないんだ」と言った

 日本人の特性をどう判断したらいいんだ!・・・・

 日本人はいつも、

 中国の軍隊は組織だってなく、

 規律に欠けると軽蔑して言うが、

 日本軍こそ今までお目にかかった

 最悪の匪賊よりもまだ悪い。

 田中総領事は日本の上層部が

 このような無法行為に対して、

 すでに改善命令を2つ出したと言っているが、

 状況は日に日に酷くなり続けている。     

12月22日、水曜日       

 今日私は鼓楼病院で

 なんとも言えない情景を見た!

 7歳の男の子の死体で、

 お腹を銃剣で4回か5回刺されていて、

 もう手当ての仕様がない。

 19歳の娘さんで6ケ月半の妊婦(最初の妊娠)が、

 日本兵の強姦に反抗したために、

 突き刺された傷が顔に7ケ所、腿に8ケ所、

 お腹に1ケ所深さ2インチ(これで流産になった)。

 10歳の女の子は両親といたときに

 日本兵がやって来て、

 両親を殺すのを見ていて刺された。

 ひじが酷く刺されていて、

 障害者になることだろう。

 1人の女性は和記洋行の雇員で、

 日本兵が来て、何の理由もなく他の人を

 皆殺しにして、彼女の首を刺した。

 もう一人の農民はほかの人と一緒に捕まり、

 幾千幾万の同じように機関銃で掃射されて

 倒れたがまだ死んでいない。

1938年1月5日、水曜日       

 ・・・・日本軍が南京に来る前には、

 私も中国人から日本軍の凶暴行為については

 少しは聞いた事があり、

 彼らはとても怖がって

 南京から逃げようとしていた。

 けれどもその時は単なる噂に過ぎないと、

 思っていたが、

 今は現実が噂よりずっと

 酷いものなのかを証明している。・・・・

 12月12日以降はいかなる抵抗もなかったと思う。

 日本軍についていえるのは、彼らの入城した後、

 武器を放棄した敗残兵と幾千幾万もの

 無辜の一般市民を虐殺するという

 行動がいまだに続いているということだ。     

1月30日、日曜日       

 日本人は性道徳のない民族のようです。

 女の子が経済面で両親を助けるために

 何年か身を売り、

 それから結婚するのが親孝行だと

 見なされている日本には、

 確かにその国なりのおきてがあるんだ。

 私たちが相手をしていかなければ

 この日本の人たちは、

 強姦を犯罪行為だと全く思っていないのだ。     

2月2日、水曜日       

 目下のところ厄介な根本問題は、

 強姦を日本人が恥ずべきことと

 思っていないことだ

 日本軍の長が、

 それを根絶する努力をしていない。

 もし強姦をした兵士何人かを

 銃殺にしたならその後の行為は

 止まったかも知れない。

 明らかに軍が全体として、

 強姦を犯罪とみなしていないし、

 大変憎むべき事だとも思っていないのだ。     

◎マッキム牧師への手紙     

1938年4月2日       

 ・・・・死体を埋葬する作業を

 大掛かりに続けてきた中国の慈善協会

 (Chinese BenevolentAssociation)の

 責任者が語ったところでは、

 作業を始めた1月23日から3月19日までに、

 屍をすでに13,104体埋葬していて、

 これに近い数がなお埋葬されずに

 残されています。

 ほかにもいくつかの組織が

 埋葬作業に従事していますし、

 友人や親族によっても埋葬されています。

 わが協会の共同墓地の管理人の話では、

 2,000から3,000の人が城門外で殺され、

 地域の人たちが埋葬したそうです。

 ・・・・私は何度も日本を訪れましたし、

 一度は前橋で家族と共に

 先生のご姉妹のお隣に住まう

 広栄に浴しもしました。

 そこは美しい国ですし、

 人々は素敵だと思っておりました。

 私が見てきた日本と、

 ここで見ている野蛮さとを、

 どう調和させればいいのかが、

 いまだに解決しないでいる問題なのです。     

◎撮影フィルムの解説から       

 ・・・・日本の将校や男たちは、

 中国は敵なのだから何をしても

 構わないという態度があるようです。

 強姦が軍の幹部に軽い事とみなされ、

 それが外国に知れて悪い印象をもたらしたり、

 上部から圧力がかかった場合にのみ、

 悪いと思うのです。

 公平を期して言えば、

 多くの日本人にも兵士たちの一部には

 悪いのがいると認めています。・・・・

 日本の軍隊をなんと評すればよいのでしょう?

 あらゆる国には犯罪者やサディストがいて

 戦争でその本性が出ることもあります

 日本の兵士たちの行為に明らかな広範囲に

 普及した残忍さと血に飢えたさまは、

 腹切りのような恐るべき習慣を賞賛し

 子供たちにもそんな血に飢えた物語を

 読ませている国では恐らく

 避けられない結果なのでしょう

 

「ミニ-・ヴォ-トリン Minnie Vautrin」

  1886年イリノイ州生まれ。

  1912年イリノイ大学卒業。

  基督会から宣教師に任命され中国へ赴任。

  1916年金陵女子文理学院教授。

  宣教師、南京国際赤十字委員会委員。

  日本軍の南京占領時、

  金陵女子文理学院に婦女子だけの

  避難所を開設した。

  1938年国民政府は難民保護の功績で

  勲章を授与した。

  1940年5月にアメリカに帰国し、

  1941年神経衰弱でガス自殺した。

  彼女の死を知った中国政府は

  1941年6月1日「国民政府令」を発布した。

  そして大学の関係者の手で

  南京郊外に墓がたてられ、

  英文で「1886-1941 28年間にわたる

  中国への慈悲深き伝道の徳行を讃える」と

  記されました。

  ◎国民政府令   

   アメリカ人女性華群

   (ヴォ-トリンの中国名)は

   金陵女子大学副校長として

   人材の育成に顕著な成果をおさめ、

   1937年の冬に敵が南京を侵攻し、

   残虐凶暴をはたらいた時に、

   危険を顧みずに婦女子の

   避難・救済に奔走し、

   その保護に尽力された功はまことに大きい。

   このたび、アメリカにて

   逝去したとの報に接して

   深く悼み惜しむものである。

   よって、ここに政令を発布して

   その徳を表彰する

日記から

1937年12月15日 水曜日       

 昨日と今日、日本軍は広い

 範囲にわたって略奪を行い、

 学校を焼き払い、市民を殺害し、

 女性を強姦している。

 武装解除された1000人の中国兵について、

 国際委員会はその助命を要望したが、

 にもかかわらず、彼らは連れ去られ、

 多分今頃はすでに射殺されているか、

 銃剣で刺殺されているだろう。

 南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、

 古くなったフル-ツジュ-ス、

 その他少々を持ち去った。

 (まさしく門戸開放政策だ!)      

12月16日 木曜日       

 おそらく、ありとあらゆる罪悪が

 今日この南京で行われたであろう。

 昨夜、語学学校から少女30人が連れ出された。

 そして、今日は昨夜自宅から

 連れ去られた少女たちの

 悲痛極まりない話を何件も聞いた。

 その中の1人はわずか12歳の少女だった。

 食料、寝具、それに金銭も奪われた。

 李さんは55ドル奪われた。

 城内の家はことごとく1度や2度ならず押し入られ、

 金品を奪われているのではないかと思う。

 今夜トラックが1台通過した。

 それには8人ないし10人の少女が乗っていて、

 通過する際彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。

 軍事的観点からすれば、

 南京攻略は日本軍にとって

 勝利と見なされるかもしれないが、

 道徳律に照らして評価すれば、

 それは日本の敗北であり、

 国家の不名誉である。

 このことは、将来中国との協力及び

 友好関係を長く阻害するだけでなく、

 現在南京に住んでいる人々の尊敬を

 永久に失う事になるだろう。

 いま南京で起こっていることを

 日本の良識ある人々に

 知ってもらえたらよいのだが。     

12月19日 木曜日       

 日本兵の1団を追い出しても

 又別の1団がいるといった具合で、

 キャンパスの端から端まで

 行ったり来たりで午前中が過ぎてしまった。

 南山にはたしか3回行ったと思う。

 その後キャンパスの裏手まで来たとき、

 教職員宿舎へ行くようにと、

 取り乱したような声で言われた。

 その2階に日本兵が上がって行ったという。

 教職員宿舎2階の538号室へ行ってみると、

 入り口に1人の兵士が立ち、

 そして室内ではもう1人の兵士が

 不運な少女をすでに強姦している最中だった。

 日本大使館に書いてもらった

 一筆をみせたことと、

 私が駆けつけたことで、

 2人は慌てて逃げ出した。

 卑劣な所業に及んでいるその2人を

 打ちのめす力が私にあればよいのだがと、

 激怒のあまりそう思った。

 日本の女性がこのようなぞっとする話を

 知ったなら、

 どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。      

12月23日 水曜日       

 私たちの隣人で虎踞関路からやってきた

 孫さんは、現在はキャンパスの東の中庭で

 生活している。

 彼女の話では、

 昨夜60人ないし100人ほどの男性

 (ほとんどが若者)が

 金陵寺南方の小さな谷間へ

 トラックで連れて行かれ、

 機関銃で射殺された後、

 1軒の家に運び込まれ火をつけられたそうだ。      

12月24日 金曜日       

 あすはクリスマス。

 10時ごろ執務室に呼び出されて、

 日本軍の師団の高級軍事顧問と

 会見する事になった。

 ここの避難民10,000人の中から売春婦100人を

 選別させてもらいたいというのが

 日本軍の要求であった。

 彼らの考えでは兵士が利用するための

 正規の認可慰安所を開設する事ができれば、

 何の罪もない慎みのある女性に

 淫らな行為を働く事はなくなるだろう、というのだ、

 以降は女性を連行しないことを

 約束したので、物色を始めることを許可した。

 かなりの時間が経過してから

 彼らはようやく21人を確保した。・・・・・ 

注:軍が主体となって慰安所開設に

  手を出していた証拠です。     

12月27日 月曜日       

 城内では、依然として破壊が続いている。

 火災の煙が濛々と立ち上っているところを

 見ると、現在は北里門橋の方向が

 破壊されているようだ。

 南門から北里門橋までの間にある

 商店は軒並み掠奪され、

 焼き払われてしまったのではないかと思う。

 掠奪はいまやトラックを使って行われ、

 絨毯やベッドといった

 大きな備品が持ち去られている。

 それらは句容に運ばれているらしい。

 けさ校門内に入ってきた女性の話では、

 個人の住宅での掠奪は依然として

 続いており、銅貨のような

 小銭さえも盗まれているそうだ。      

12月31日 金曜日       

 けさ、とても素晴らしい日本人がやってきた。

 遠藤という人で、

 彼の司令部はかっての首都飯店にある。

 遠藤氏だけでなく、

 一緒に来た憲兵もたいへん好感が持てた。

 両人ともやさしく思慮深そうな顔つきをしていた。

 遠藤氏は、難民救済の業務に関心があると言い、

 援助を申し出てくれた。     

1938年1月11日 火曜日      

 城内全域に対して憲兵は17人しかいなかった。

 憲兵がもっと大勢いたら、

 状況ははるかに良かったであろう。

 というのは、憲兵は一般の軍人よりも

 はるかに優秀と思われるからだ。

 わたしが会った憲兵は少数だが、

 みな非常にすばらしい人のようだ。     

2月2日 水曜日       

 けさは薄暗く寒い朝だったが、

 たくさんの飛行機が西北部に

 死と損壊をもたらした。

 ア-ネスト・フォスタ-、

 ジェ-ムス・マッカラムと一緒に10時、

 最初に城南にあるキリスト教会伝道本部へ行った。

 インディアナビルディングは、

 外側はそれほど損壊していなかったが、

 とくに最上階の部屋は徹底的な掠奪をこうむっていた。

 西地区の校舎は焼け落ちていた。

 中華路では、最高級の建物の

 80%が焼けてしまったようだった。

 キリスト教青年会館は、

 真っ先に焼かれた建物の一つだった。

 日本軍入城直後の数日間、

 火災はそれほど多くなかったが、

 一週間と経たないうちに、

 計画的に掠奪した上で放火するという

 方針がとられ、何日間もそれが続けられた。

 結果は今朝私が見たとおりだ。

 撤退するさいに中国軍は、

 金銭を奪う以外はほとんど掠奪を働かなかった。

 全く奇妙な話だが、私たちとしては、

 こんなことになるとは思ってもみなかった。

 私たちの多くは日本軍の長期にわたる

 包囲攻撃と中国軍兵士の掠奪を恐れていた。

 いやむしろ日本軍はきわめてよく

 訓練されているから

 掠奪や放火はしないと確信していた

 アメリカ教会伝道本部も

 ほぼ同じような状態だった。

 伝道施設はアメリカ側と日本側の

 声明によって十分に保護されていた

 はずであるにもかかわらず、

 徹底的な掠奪をこうむっていた。・・・・

 太平路では商店が軒並み焼かれてしまった。

 徹底的な掠奪の証拠を隠蔽するためだ。

 軍のトラックが掠奪品を運び出した。      

2月8日 火曜日       

 ・・・・2時45分、ラ-ベ氏とルイス氏が

 日本大使館のコンサ-トに

 私を案内するためにやってきた。

 私たちは誰も行く気にならなかったが、

 しかし行かなければならないと思った。

 20人編成の楽団の指揮者は

 実に素晴らしい演奏プログラムを用意していた。

 にもかかわらず私は音楽に

 没入する事が出来なかった。

 「軽騎兵」序曲が演奏されたとき、

 私の心は、12月14日に校門を出て行った

 あの行列からどうしても離れなかった。

 両手を縛られ日本軍の歩兵と騎兵の

 うしろから歩いて行った

 100人ないしそれ以上の一般市民の集団、

 いまだに戻って来ない集団の事だ。

 そして「われらの軍隊」が

 誇らかに演奏されたとき、

 破壊された都市や荒廃した農村や

 強姦された婦女子の姿が

 たえず目の前に浮かんでいた。

 私は音楽を聞いたような気がしない。

 ドイツ人、イギリス人、アメリカ人を代表して

 たぶん20人の欧米人が出席していた。

 日本大使館の職員たちは

 私たちに日本軍の蛮行を

 忘れさせようと試みたのである。      

3月18日 金曜日       

 ・・・・日本の女性たちは

 もし彼女たちが自分の夫や息子である

 日本軍兵士が加えた残虐無慈悲な

 仕打ちを知ったら、どう思うだろうか。

 

前にも書きましたが、

これらの資料を読んでも、

南京事件を否定する人たちは、

それでも忌まわしい事件を

否定するのでしょうか!!

 

このような日記や手紙が、ジェ-ムス・マッカラム、

ルイス・スマイス、アルバ-ト・ステュワ-ド、

ジョン・ラ-ベ・・・・

その他沢山ありますが省略します。