入城式以降
入城式終了後の22日に司令官松井石根は
上海に帰り、大部隊は次の作戦の為に
南京を離れました。
南京には上海派遣軍の第16師団(京都)が残り、
佐々木到一少将(歩兵第30旅団長)が警備司令官・
城内粛清委員長・宣撫工作委員長に
任命されました。
24日から安全区に対して徹底した
査問工作が始められ、
市民と難民を登録制にし
居住証明書(中国語で安居書)を発行しました。
日本軍が「元兵士である事を自白すれば
仕事と米を与える」と言ったため、
一般市民や難民が兵士だと言って自首し
虐殺されました。
注:このだます行為も国際法違反です
● ベイツの日記 英文資料編から
元兵隊であろうがなかろうが、
とにかく元兵隊と認定された者が
集団虐殺となったということだ。
ここは、捕虜の生命はさしせまった
軍事上の必要以外においては
保障されるという国際法の
条文を語る場所ではないし、
日本軍もまた、国際法など眼中になく、
いま南京を占領している部隊の戦友を
戦闘で殺したと告白した人間にたいしては
復讐すると公然と言明したのである。
● ウイルソンの日記 12月19日
牧師・鼓楼病院マネ-ジャ-
中国の南京防衛軍が崩壊してから
ちょうど1週間がたった。
月曜日(13日)には日本兵たちが
中山門を行進してきて病院の前を通過し、
日本の国旗がそちこちに
見受けられるようになった。
これからは逃げまどいながら退却する
中国軍のパニックもなくなり、
秩序が回復し、
頭上を飛ぶ飛行機にも不安がることもなく、
緊張することもなくなるだろうと、
誰もが安堵の吐息を漏らしたのも
束の間、1週間がたってみると、
まさにこの世の地獄であったのだ。
思い出すのもおぞましい。
どこをどうはなしたらよいのか
見当もつかない。
このような酷い話は聞いたことも
見たことも無い。
レイプ、レイプ、レイプばかり。
強姦事件は一晩に千件は起こり、
昼間でもたくさんある。
日本兵に反抗したり
不服のような態度でもしようものな、
銃剣で刺し殺されるか、
もしくは銃殺だ。・・・・
年が変わって1938年(昭和13年)1月5日に
敗残兵の査問会は終了しました。
しかし査問会が終了した後も
日本軍による捕虜や民間人の虐殺は続きました。
昭和13年1月22日南京警備は第11師団の
天谷支隊(第10旅団・天谷直次郎少将)へと代わり、
天谷司令官は2月上旬、
安全区の閉鎖を命令しました。
安全区は2月18日に名称を
「南京国際救済委員会」に変更しました。
● 第11軍司令官・岡村寧次大将陣中回想録
(38年6月に第11軍司令官として赴任した)
1938年7月13日(少し読み易くしてあります)
中支戦場到着後、先遣の宮崎参謀、
中支那派遣軍特務部長原田少将、
杭州特務機関長萩原中佐等より
聴取するところよれば、
従来派遣軍第一線は給養困難を理由として
俘虜の多くはこれを殺すの悪幣あり、
南京攻略時において約4~5万に上がる大殺戮、
市民に対する掠奪、
強姦多数ありしことは事実なるが如し・・・
(注:この回想録には「一切転載並公表を禁ず」と
書かれています)
● 同上・岡村寧次の講演から
(昭和29年4月18日 偕行会総会)
軍司令官着任後某師団長(注:稲葉四郎中将)を
訪問したところ、
同師団長は「私の師団の将兵は
戦闘第一主義に徹し、
勇剛絶倫なるも略奪、強姦等の非行を軽視し、
団結心強きも排他心も強い。
南京事件は前師団長(注:谷寿夫中将)時代のことであるが
相当暴行したことは確実である云々」と、
公平率直に報告した。・・・・・
当時各師団は数十名の慰安婦を同行していた。
兵站の重要なる一機関になっているが、
強姦予防のため上司も黙認と言う
有様であったのである。
日露戦争時代には慰安婦の同行は
無かったのだが強姦もなかったのである。
我が陸軍では、
昭和7年春第一次上海事変の際、
海軍側に倣って、公然慰安婦を
設けたのが最初である。
その当時極めて少数であったが、
強姦罪が発生したが、
この慰安婦を始めてからは、
全くこの犯罪がなくなったのを記憶している。
しかるに昭和12年の今日慰安婦を同行しても、
なお多くの強姦する者を続出するのである。
敗残兵や民間人の殺害は
南京戦が終わった後も続いています。
12月20日から南京の警備をは
第16師団が担当しました。
● 第16師団第30旅団長・佐々木到一少将の私記
1月5日査問会打ち切り、
この日までに城内より摘出せし
敗残兵約2千、旧外交部に収容、
外国宣教師の手中にありし
支那傷病兵を俘虜として収容。
城外近郊にあって不逞行為を
続けつつある敗残兵も逐次捕縛、
下関において処分せるもの数千にたっす。
● 早尾乕雄陸軍中尉のレポ-ト「戦場心理の研究」から
早尾中尉は金沢医科大学教授で予備将校(原文カナ)
1938年8月5日(南京戦終了後約9ケ月・原文カナ)
余が南京へ入った日は
陥落後1週間であったから市街には
頻々と放火があり、
見る間に市内の民家は
日本兵により荒らされて行った。
下関には支那兵屍体が累々と重なり、
これを焼き棄てるために集められたのである。
目を揚子江に転ずれば
ここに山なす屍体であった。
その内に正規兵の捕虜の処置が始まり、
海軍側は機関銃を以て、
陸軍は惨殺、銃殺を行い
その屍体を揚子江に投じた。
死に切れないものは下流に泣き叫びつつ
泳ぎ行くを更に射撃する。
これを見ても遊戯位にしか感じない。
中には是非遣らせてくれと
首切り役を希望する将兵もある。
揚子江に沈んだ正規兵の屍体は
おおよそ2万位と言われる
南京事件はまぼろしだと主張する人たちは
「戦闘中の行為だから殺害はやむを得ない・・・・
戦闘中は行きがかりで色々なことがある」と主張するので、
私達はつい信じてしまいがちです。
しかし多くの事件は南京陥落後に起きていますし、
しかも占領後1ケ月以上も続いたのです。
ニュ-ヨ-ク・タイムスの記事を見てみます。
● ニュ-ヨ-ク・タイムス 1938年1月24日
ハレット・アベンド
軍事的必要その他の日本側の
口実をすべて剥ぎ取ってみるに、
日本軍の中国前首都攻撃から
1ケ月と10日たった南京の現状は、
日本当局が外交官以外のいかなる
外国人の南京訪問をも許可できないほど
無法で野蛮である
という赤裸々な事実が残る。
12月26日、上海の日本側高官たちは
南京で略奪、暴行が続いていることを
残念ながら認めると言い、
記者に対し、軍規劣悪、命令不服従の部隊は
小部隊ずつ長江北岸に移動されているところであり、
その守備範囲は精選された、
軍規厳正、行動良好の部隊によって
替わられる、と約束した。
さらに1月7日にも日本当局は記者に、
遺憾ながら南京はまだ嘆かわしい
情況であると認め、
統制を逸し、日々何百という婦人や少女へ
暴行を働いている軍の師団は
2~3日中に南京から撤去される
見込みだと、保証した。
だが1月20日の遅きに至っても
無法の支配は何ら抑制されることなく
続いている。
もし約束どおりに部隊の交替が
行われたのならば、新来の部隊も
同様に無規律ということになろう。
先週金曜日夜、
上海の日本当局は率直に、
この情況に関する電信報告は
検閲を通過しないと通告し、
事実上、日本軍の権威を傷つけるおそれある
「悪意ある」報告の打電を禁止する旨宣言した。