第二次上海事変から全面戦へと拡大 2
日本軍による南京政府攻撃が決まったことから、
在南京の日本大使館館員や日本人居留民は
下関(シャ-カン)から船、列車を
乗り継いで青島に避難しました。
引き上げる日本人に対して、
中国人から危害が加えられないようにと
国民政府は特別列車を用意し、
40名の護衛用の憲兵や2人の外交部の係官まで
随行させて丁重に扱っています。
青島に着くまでの停車駅でも
厳重な保護を与えています。
注:もし立場が逆で日本だったら、
またその後の南京での日本軍の暴行を考えると、
国民政府がきちんとした
紳士的な政権だった事が分かります。
◎証言 庄司得二「南京日本居留民誌」から 1940年
停車場構内の柵外には黒山のような人集まり、
列車をさして何事か語り合いおるも
ホ-ム内には人影なし。
停車すると同時に護衛の憲兵ただちに
列車の外側に並列し柵内を警戒しおる
巡捕にて二重の警戒線を張り、
列車付近に一人として群集を寄せつけず、
厳重警戒をしおれり。
その後停車のたびごとに注意しおりたるに、
いかなる小駅にても同様にて、
実に行き届きあれり
● 8月17日
近衛内閣は不拡大方針を
次のように変更する決定をした。
1. 従来執り来たれる不拡大方針を抛棄し、
戦時態勢上必要なる諸般の準備対策を講ず
2. 拡大せる事態に対する経費支出の為、
来9月3日頃臨時議会を召集す
この頃陸軍では中国での戦争を
拡大するのかしないのかの
意見が分かれていました。
不拡大派の石原莞爾作戦部長は
対ソ連を目標にした軍備拡張のため、
中国とはあまり深入りしないほうが良いと主張していた
◎石原莞爾中将回応答録から
然るに責任者の中には
満州事変があっさり推移したのと同様、
支那事変も片付け得るという
通念をもつものもいました。・・・・
事変がはじまると間もなく傍受電により
孔祥肌煕は数千万ドルの
武器注文をどしどしやるのを見て、
私は益々支那の抵抗、決意の
容易ならざるを察知いたしました。
即ちこの際、戦争になれば
私は之は行くところまで行くと考えたので、
極力戦争を避けたいと思い、
又向こうも避けたい考えであったようです。
さらに今日のようになったのは真に残念であり、
又非常なる責任を感ずる次第であります。
◎同じ石原莞爾中将回応答録から
今次の上海出兵は海軍が
引きずって行ったものといっても
差し支えないと思う・・・・
私は上海に絶対に出兵したくなかったが
実は前に例ががある・・・・
拡大派には、杉山元陸相、田中新一軍事課長、
武藤章作戦課長、永野佐比重支那課長などがいて、
中国軍の実力を軽視し、
断固として一撃を加えれば
早く終わると主張していました。
石原莞爾が言う海軍との間に結ばれた協定は
1937年7月11日の「北支作戦に関する陸海軍協定」で、
その中に帝国居留民の保護を
要する場合においては、
青島および上海付近に限定して
陸海軍の協力することがきめられていました。
そして近衛首相も広田弘毅外相も
拡大派に同調していたため
上海事変は拡大していきました。
ところで、戦争ではなく事変と呼んでいますが、
事変とは戦争ではない小さな揉め事です。
この時期の戦争を全て事変とした理由は
1. 簡単に中国軍にを打撃を与えて
早く終わると思っていた
2. 正式に宣戦布告をする大義名分がなかった
3. 石油、鉄をはじめ多くの物資を
アメリカから輸入していたため、
小競り合いだという名目にしておきたかった
4. ハ-グの陸戦に関する条約を逃れるため
そして軍としては戦争としないで事変として
ハ-グ条約を逃れることになりました。
● 8月5日の陸軍次官通牒「陸支密第198号
交戦法規の適用に関する件」(原文カナ)
現下の情勢に於いて帝国は
対支全面戦争を為しあらざるを以って
「陸戦の法規慣例に関する条約
其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を
悉く適用して行動することは適当ならず
注:都合が悪いからハ-グ条約などは
守らないようにするということです。
さらにその後、
11月に外務、陸軍、海軍の3省で
宣戦布告の利害得失を検討して、
布告しての正式戦争はマイナスが多いと
判断されました。
天皇の意思としては
青島にも不穏な動きがあることから、
戦線を拡大しないで(事変のまま)
上海、青島を重点的に打撃を与えて
早く終わらせたかったようです。
● 8月18日
天皇の「御下問」
軍令部総長、参謀総長(閑院宮)宛て(原文カナ)
戦局漸次拡大し上海の事態も
重大となれるが青島も不穏の形勢に在る由
斯くの如くにして諸方に兵を用ふとも
戦局は永引くのみなり
重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて
我の公明なる態度を以て
和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや
即ち支那をして反省せしむるの方途なきや
このように天皇や軍中央は
上海に限定された作戦のはずだったのですが、
上海派遣軍の松井石根大将は
内心南京まで行くつもりだったので、
8月18日の送別会で不満を表明し、
参謀本部から注意されています。
◎参謀本部総務部長中島鉄蔵少将から
上海派遣軍飯沼守少将への注意(飯沼守日記から)
作戦命令も勅語も手続きは同様にて、
作戦命令も勅語と同様のものにて、
これを批判するごときは不謹慎なれば、
よく言うておいてくれ
それでも松井はその後も不満を漏らしています。
◎参謀本部首脳との会合での発言
国民政府存在する限り解決できず・・・・
蒋介石下野、国民政府没落せざるべからず・・・・
結末をどこにすべきやの議論あるも、
だいたい南京を目標として
このさい断固として敢行すべし、
その方法はだいたい5~6師団とし、
宣戦布告して堂々とやるを可とす・・・・
● 8月23日
第3、第11師団は呉淞鎭南方、
第11師団は揚子江の川沙鎭付近に
強行上陸をしました。
それでもかなりの苦戦をしたため
青島用に待機していた天谷支隊が9月1日に、
台湾守備隊中心の重藤支隊が9月7日に上陸しました。
それでも圧倒的な兵力の不足は
予想されていたので、
8月21日陸海軍の統帥部は検討の上
2つの案を天皇に奉答しました。
◎上奏内容
1.航空兵力で敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して
敵国軍隊および国民の戦意を喪失させる
2.華北で北京、天津地方を占領し、上海を確保し、中国沿岸を封鎖する
天皇としてはそれよりも兵力不足が問題だとしてまずは増兵を望んでいたようです。
◎昭和天皇独白禄・寺崎英成御用掛日記 より
当時上海の我兵力は甚だ手薄であった。
ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ
2ケ師団の兵力では
上海は悲惨な目に遭うと思ったので、
私は盛んに兵力の増加を督促したが、
石原はやはりソ連を怖れて満足な兵力を送らぬ・・・・
天皇は再三増兵を督促していました。
9月6日参謀総長を召して再度意思を伝えました。
直ちに参謀本部は検討し、同日午後参内し
天皇に「上海に第9、第13、第101師団及び
台湾守備隊を増派することに内定」と上奏しました。
整理すると、
●8月25日
首相・陸相・海相・外相の4相会議で、
宣戦布告はしないが、
それに変わる勅語を出すことが決定された。
●9月2日
閣議で「北支事変」の呼称を
「支那事変」に変えることが決定され、
全面的な日中戦争になった
●9月4日
第72臨時議会開院式で
昭和天皇の勅語が発表された。
(勅語)
中華民国深く帝国の真意を解せず、
みだりに事をかまえ、
ついに今次の事変を見るにいたる。
朕これを憾とす。
今や朕が軍人は百艱を排して
その忠勇をいたしつつあり、
これ一に中華民国の反省を促し
すみやかに東亜の平和を
確立せんとするにほかならず。
朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、
忠誠公に奉じ、和協心を一にして
賛襄もって所期の目的を達成せんことを望む
● 同日
杉山陸軍大臣は既に全面戦争であるとの
訓示を出した。(現代文に要約)
(訓示)
・・・・今回の事変はその原因は
南京政府の従来からの国策から生じたものである。
すなわち抗日排日がこのところ
顕著になりそれに容共政策が加わって
激成したものである。
これは過去我が帝国が経験したこととは
全く異なるものである。
すでに全面戦争に移行したことを
深く覚悟しなければならない・・・・
注:国家としては事変であると言いながら
陸軍大臣は全面戦争であると訓示
●9月5日
前日から始まった臨時議会で
近衛首相は次のような施政方針演説をおこなった。
◎演説
今日このさい、帝国として採るべき手段は、
できるだけすみやかに支那軍に対して
徹底的に打撃を加え、
彼をして戦意を喪失せしめる
以外にないのであります。
かくしてなお支那が容易に反省をいたさず、
あくまで執拗なる抵抗を続ける場合には、
帝国としては長期にわたる戦いも
もちろん辞するものではないのであります。
惟うに東洋平和の確立の大使命を
達成するがためには、
なお前途に幾多の多難が
横たわっているのでありまして、
この難関を突破するためには、
上下一致堅忍持久の精神をもって
邁進するの覚悟を要すると
思うのであります。・・・・
● 9月6日
天皇は参謀総長を召して
再度増兵の意思を伝えた。
● 9月7日
拡大派武藤章作戦課長を中心に
大部隊の上海派遣が決定された。
● 9月11日
上海に5ケ師団の派兵遣が決定し、
石原莞爾は辞任を決めた。
● 9月23日
石原は退陣し後任に
下村定少将が就任しました。
● 9月28日
増派に反対していた石原莞爾は
更迭される形で関東軍参謀副長になり、
石原は「ついに追い出されたよ」の
言葉を残して満洲に去って行ったのです。