大山中尉の殺害

8月9日、

上海で日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が

中国保安隊員に射殺されました。

 

● 東京朝日新聞 1937年8月10日付 上海特電9日発

 日本海軍特別陸戦隊午後9時45分発表

 陸戦隊第1中隊長海軍中尉大山勇夫は

 1等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により

 本日午後5時頃上海共同租界越界路の

 モニュメント路(碑坊路)通行中、

 道路上にて多数の保安隊に包囲せられ、

 次いで機銃、小銃等の射撃を受け、

 無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。

 現場を検視するに頭部腹部には

 蜂の巣の如くに弾痕があり、

 自動車は前硝子が破壊せられ、

 車体は数十発の機銃弾痕あり、

 無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。

 

当時の上海特別陸戦隊司令官は

大川内伝七少将で大山勇夫中尉は

西部派遣隊長(第1中隊長)でした。

この殺害に関して笠原十九司氏の研究論文から引用します。

 

● 笠原論文から

 「北支事変」の停戦を実現するための

 使命をもって船津辰一郎が

 8月7日に上海に到着、

 和平工作を開始し始めた頃、

 上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七少将に

 秘かに呼ばれた大山勇夫中尉は、

 口頭秘密命令として「お国のために死んでくれ、

 家族のことは面倒をみるから」と、

 そして8月9日の夕刻、

 中国軍の飛行基地となっている

 虹橋飛行場へ強行突入して、

 射殺されるよう告げられた。

 その際、こちらから攻撃したと見られないように、

 つまり一方的に、

 不法に殺害されたと見なされるように、

 拳銃は携帯するな、という注意受けた。

 

この笠原氏の研究では

大山中尉殺害は日本海軍が

仕組んだ謀略ということになります。

このことを証明する状況証拠を

同じ笠原論文から整理します

 

◎第二隊長の貴志中尉が復讐として

 8月15日、中国軍陣地を攻撃し戦死したが、 

 貴志中尉は武功として表彰されず、

 単に殺害された大山中尉は軍神扱いされた

◎大山中尉と一緒に殺害された

 斉藤一等水兵も同じように表彰されていない

◎大山中尉は独身で妻子がいなかった。

 忠勇至誠の国粋主義的な軍人だった

◎大山中尉の護衛兵の手紙に

 大山中尉について次のように書かれている

  ☆事件前日、書類整理をして焼却していた

  ☆前日風呂に入り、襦袢と褌を着替えた

◎遺品が後日実家に送られたが、

 日記の、前日8月8日のペ-ジに、「遺髪」と

 「母から持たされた千人針」が挟んであった

◎日記の最後のページに挟んであった

 絵葉書には次のように書かれたあった。(原文カナ)

      断

     自戒

 1. 戦場なり隙あるべからず

 1. 雑念を去れて期を見つめよ

 1. 女性事に関し気を向くる勿れ

  (注:付き合っていた女性がいた)

 1. 士魂

 1. 体を鍛え之を気に従わしめよ

 1. 任務は力なり

 1. 大丈夫は丹田の力のみ

 1. 戦斗一般の目的は敵を

  圧倒殲滅して遂に戦捷を得るに在り

        9日

 (注:絶筆として前日の深夜に書かれたものと思われる)

◎当日9日の午前中隊全員を集めて最後の訓話をした。

 ☆小隊長池田忠太郎の記録

  皆は今、戦死をしても

  何の心残りのない者は手をあげよ・・・・

  中隊長は感謝に耐えない、

  それでこそ立派な

  ご奉公ができるものである・・・・

  その処迄話さるるや中隊長は感極まってか

  暫く言葉なく目は異様に光って居たのであった。

通常不慮の挑発事故を警戒し、

 陸戦隊が配備区域以外に出動することはなかった。

      (注:重村実回想記)

◎そのため租界外に出る時は

 余計な刺激を相手に与えないように 

 私服で拳銃を隠し持って出かける習慣だったが、 

 当日に限りわざわざ陸戦隊将校と

 わかる軍服で、しかも拳銃を持たずに出かけた。

◎大山中尉が死亡したのは9日午後6時半頃だった。

 そしてその後の海軍の遺族に対する

 対応が非常に早かったため、 

 大山事件が予定行動だったように思われる。

 

軍の対応の早さは

アジア歴史資料センタ-資料からも見ます。

     (笠原論文より)

8月10日午前3時20分電 

  海軍省人事局から

     大山中尉の実家までの電報

  「大山中尉昨9日午後6時30分頃上海ニ於テ

  戦死ヲ遂ゲラレシ旨公電アリタリ取リ敢ヘズ」

8月10日午後7時50分電 

  海軍省人事局から

     大山中尉の実家までの電報

  「大山中尉9日附大尉ニ進級正七位ニ叙セラル」

8月10日午後9時55分電 

  米内光政海軍大臣から

     大山中尉の実家までの電報

  「大山海軍大尉名誉ノ殉職ヲラレシ候

  痛惜ニ耐ヘズ慎ミテ弔意ヲ表す」

 

9日の夕方の事件であるにもかかわらず、

きちんとした調査もしないで

翌日に海軍からはこれ等の対応がされているのは

かえって不自然だと思われます。

やはり海軍しては

予定された事件だったのかもしれません

 

そして8月9日の大山中尉殺害から

5日後の14日に日本軍による爆撃が開始され、

第2次上海事変に突入するのです。

 

次回は局地戦だった第2次上海事変が

全面戦争に移行していく過程を書きます。