ワシントン・ポストの記事
● 1937年12月17日
・・・・アメリカ砲艦オアフから、
日本の南京占領についての目撃者の
第一報が届いた。
パラマウント・ニュ-ス映画のカメラマン、
ア-サ-・メンケンはかっての繁栄の都は、
残忍な日本軍の陸・空からの攻撃による
兵士・市民の死体が散乱する
流血の巷と化していた、
と無線で報告してきた。
「大量処刑を執行」
少しでも軍隊に勤務していたと見える
中国人男子はすべて集められ、
処刑された、とメンケンは言った。
だが、日本側報道が南京城東の
中華民国の父孫文の大陵墓は
無傷のままだとするのは、その通りだと認めた。
中支那派遣軍松井石根大将と
支那派遣艦隊司令長官は瀬川清中将は、
今日午後南京入城式を行い、
首都南京を劇的に飾る予定である。
以下省略
● 1938年1月12日 本社東京特派員による 東京発
「パナイ号事件に続く南京の略奪」
中国に不満を抱き、民主主義列強
全てに激しく反対する彼ら青年将校は、
まもなく内外を問わず彼らの行動を
抑えるものはなにもないことを発見した。
この認識が、戦争の興奮および鬱積した心情の
吐け口を求める兵士の欲求と結びついて、
パナイ号、レディバ-ド号両事件および
南京における略奪、殺戮と強姦の
饗宴をもたらしたのであった。
南京上流の蕪湖の部隊を指揮していた
橋本大佐が、後に彼の責任は重いのであるが、
華中戦線の日本軍将校のほとんど全部が
犯罪の責を負うべきであった。
日本軍による占領後に南京で起きたことは、
12月14日まで市内に残っていた
少数の報道陣によって
部分的に伝えられえたに過ぎない。
だが、それよりもより大規模な虐殺の報告が、
その後2週間にわたってこの見捨てられた
首都から漏れ伝わってきた。
連日、中国人兵士とそれに市民までもが
同様に針金で縛られ、30~50人ずつの
一団にされて長江岸の下関に連れて行かれ、
機関銃で殺戮された。
日本兵が銃剣に中国人の首を突き刺して、
市街を行進するのが、
外国人によって目撃された。
このほかにも首が切り落とされ、
口に煙草の吸い差しが、
鼻に薬莢が詰められているのが見受けられた。
南京の家という家が捜索され、略奪された。
外国人およびその財産も
この一般的運命を免れなかった。
見栄えのよい婦人はすべて
いずれかに拉致され、
帰って来る者はなかった。
ある宣教師は、姑娘を差し出せという
日本兵の要求を拒むとき、
その外交戦術の限りを尽さなければならなかった。
上海-南京間のあちこちの町や村から、
娘や若い婦人が日本兵に連れ去られて以後
消息が無い、という同様の報告が届いた。