日本軍は何故慰安所を作ったのでしょうか?
1932年の第一次上海事変の時には
既に海軍の慰安所がありましたが、
大量に出来たのは南京事件で有名な
第二次上海事変から続く南京戦の後です。
考えられる理由を挙げてみますと・・・・
1. 南京事件(いわゆる大虐殺)の時に、
20,000件の強姦事件が起きたと言われています。
その結果中国の民衆の中に
予想以上の反日感情が生まれました。
強姦が反日感情を高める事は、
既に1932年7月の関東軍参謀部の
「漢民族の特質」には次のように書かれています。
「支那人はめんつを重んじ・・・・
強姦は総ての悪徳暴虐行為の中、
最悪なるものとして非常に重大なる社会問題として居る。
匪賊や盗賊も嘘言、瞞着、掠奪、
強盗等は平気でやるが、
強姦だけはめったにやらぬ」
そのため
◎反日感情を和らげる
◎占領地の治安を良くする
◎皇軍の威信を守る
このような理由で慰安所が急に増えたのでしょう。
☆岡村寧次大将回想録から
・・・・昔の戦役時代には慰安所などは
無かったものである。
かく申す私は恥ずかしながら
慰安所案の創設者である。
昭和7年上海事変のとき
2~3の強姦罪が発生したので、
派遣軍参謀副長であった私は、
同地海軍に倣い、長崎県知事に
要請して慰安婦団を招き・・・・
しかし慰安所を沢山作っても
強姦はいっこうに減りませんでした。
そのことは次に詳しく書きます。
2. 性病対策-性病にかかって戦力が低下する事を防ぐ
☆そのため軍がきちんと管理する
☆若くて性経験の無い女性を採用する-
これが強制連行につながった
◎陸軍教育総監部発行「戦時服務提要」から
(当時の本部長は安藤利吉) (原文カナ)
「性病に関しては積極的予防法を講ずるは勿論、
慰安所の衛生施設を完備すると共に
軍所定以外の売笑婦、土民等との
接触は厳にこれを根絶するを要す」
3. 大儀名分のない戦争と兵士が考えていたため、
不満解消策とした。
注:日本軍ではストレス解消策は
酒と女でした。
ですから武器や食料など
物資が不足した末期でも、
いたるところに酒と女だけはありました
4. 中国でのスパイ対策のため、
言葉の通じない朝鮮人を慰安婦にした。
これらの理由を見ると、全て日本軍のための理由です。
現地の人々のためを思った理由ではありません
(現地の女性を保護するために
慰安所を作った訳ではないということです)
● 支那事変の経験よりみたる軍紀振策対策
陸軍省副官 川原直一 通牒 陸密第1955号
1940年9月19日 (原文カナ)
緒言
第1 一般的事情(省略)
第2 主として事変において著意すべき事項
1. ・・・・事変勃発以来、相当なる武勲の反面に
掠奪、強盗、強姦、放火、俘虜惨殺等皇軍らの
本質に反する幾多の犯行を生じ、
その為に聖戦に対する内外の嫌悪反感が起き、
聖戦目的の達成を困難にしているのは遺憾である・・・・
2. 3. 4. (省略)
5. 事変地においては特に環境を整理し
慰安施設に関し周到な考慮を払い、
殺伐な感情及び劣情を緩和抑制する事に
留意する必要がある。・・・・
特に性的慰安所から受ける兵隊の
精神的影響は最も率直深刻にして、
この指導監督の適否は志気の振興軍紀の維持、
犯罪及び性病の予防等に影響するところ大なるを思う
これらの資料で見るように
従軍慰安婦は日本軍の管理下におかれ、
無権利状態のままに一定の期間拘束され、
将兵の性交の相手をさせられた
女性のことであり、まさに「軍用性奴隷」です。
勿論公娼制度が良いというわけではありません。
やはり性的搾取を続ける女性に対する
人権問題であることは同じです。
[慰安所で強姦は減ったか]
軍専用の慰安所を作った理由のひとつに
強姦の防止がありました。
それでは慰安所を作ってから
強姦事件は減ったのでしょうか?
現実にはいくら慰安所を作っても
強姦は増えるばかりでした。
その理由を兵士達の証言から
探ってみると次のようになります
1. 下級兵士の給料では慰安所にいけなかった。
2. 慰安所は軍の駐屯地に多く、
戦闘の最前線では慰安所が足りなかった。
3. 数人ずつは慰安婦を前線に
出張させたがそれでも足りなかった。
4. 同じ慰安婦では飽きてしまって、
違う国の女性に刺激を求め、そのことに慣れた。
5. 軍の物資を徴発(掠奪、強盗)に頼ったため、
その際ついでに強姦に発展した。
6. アジア人に対する蔑視があって、
アジア女性を人間として見ていなかった。
7. 慰安所ですら強制連行や強制労働などの
人権無視だったため、強姦に違和感がなかった。
そこで軍の慰安所に関する記録を見てみます。
●方軍参二密第161号(原文カナ)
注:季刊戦争責任研究第26号 竹内桂論文より
「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」
昭和13年(1938年)6月27日
北支那方面軍参謀長(岡部直三郎)
1. 省略
2. ・・・・諸情報によるに、かくのごとき
強烈なる反日意識を激成せしめし原因は、
各所における日本軍人の強姦事件が全般に伝播し、
予想外の深刻なる反日感情を醸成せるに在りという
3. 由来山東、河南、河北南部等に在る
紅槍会大刀会及び之に類する自衛団体は、
古来軍隊の掠奪、強姦行為に対する
反抗熾烈なるが、特に強姦に対しては
各地の住民一斉に立ち、
死を持って報復するを常としあり、
(昭和12年10月6日方面軍より配布せる
紅槍会の習性に就いて参照)
従って各地に頻発する強姦は
単なる刑法上の罪悪に留まらず、
治安を害し軍全般の作戦行動を阻害し、
累を国家に及ぼす重大反逆行為と言うべく
部下統率の責にある者は
国軍国家の為泣いて馬謖を斬り
他人をして戒心せしめ
再びかかる行為の発生を絶滅するを要す、
もし之を不問に附する指揮官あらば
之不忠の民と言わざるべからず
4. 右のごとく軍人個人の行為を厳重取締ると共に
一面なるべく速やかに性的慰安の設備を整え
設備無きため不本意ながら禁を侵す者
無からしむるを緊要とす
以下省略
●方軍参二密第167号 (原文カナ)
注:季刊戦争責任研究第26号 竹内桂論文より
「陣中慰安施設に関する注意の件通牒」
昭和13年(1938年)7月14日
北支那方面軍参謀長
去る6月27日方軍参二密第161号をもって
軍人軍隊の対住民行為に
関する注意に付き軍人の
非違行為を厳重取締ると共に、
一面性的慰安の設備に関し
通牒するところありたり、
然れども前線におけるこれら施設に当り
或いは衛生施設(検黴)の励行に関し
部隊間に意見の対立を生じ
或いは白昼勤務時間中に
かかる場所に立寄りて軍紀風紀を紊り
或いは軍隊の移動に際しその行動を
掣肘しその他彼等従業員を輸送するに
兵站自動車等を使用しもしくは
彼らの行動により過早に軍の企図を暴露し
防諜上不都合なる結果を
生ずるものあるやに灰聞す、
かくの如きは軍隊の威信を失墜し
軍事行動を阻害し軍の不利を
招来するものにして決して前通牒の本旨に非ず、
性的施設の必要は多く一地に長く駐屯する
部隊等において生ずるものにして、
敵と近く相対する最前線の如きは
精神の緊張によりその必要少なく、・・・・
以下省略
● 岡村寧次大将 講演録 1954年4月18日 偕行社にて
軍司令官着任後まず某師団長
(注:第6師団長 稲葉四郎中将)を訪問したところ、
同師団長は「私の師団の将兵は
戦闘第一主義に徹し、勇剛絶倫なるも掠奪、
強姦等の非行を軽視し、団結心強きも排他心も強い。
南京事件は前師団長(注:谷寿夫中将)時代の
ことであるが相当暴行したことは確実である云々」と、
公平率直に報告した。・・・・
当時各師団は数十名の慰安婦を同行していた。
兵站の重要なる一機関になっているが、
強姦予防のために上司も黙認という有様だったのである。
日露戦争時代には慰安婦の同行はなかったが
強姦もなかったのである。
わが陸軍では、昭和7年春第一次上海事変の際、
海軍側に倣って、
公然と慰安婦を設けたのが最初である。
その当時極めて少数であったが、
強姦罪が発生したが、
この慰安婦を始めてからは
全くこの犯罪が無くなったのを記憶している。
しかるに昭和12年には、
慰安婦を同行しても、
なお多くの強姦する者を続出したのである・・・・