闇の帝王としての里見は莫大な阿片の財力があるため、
興亜院、軍、政治家までがその金を頼りにするようになり、
満州国、国策会社、その他各方面に
資金が流れるようになりました。
満州は各部署の代表は中国人がなっていましたが、
実権は全て日本人が持っていました。
例えば皇帝は溥儀で、
その下に国務総理(総理大臣)、各部大臣がいますが、
そこまでは中国人です。
しかし国務総理を補佐するために国務院総務庁長官を、
各部大臣の下に各部次長を置き、
そこが実際の権力を持っていました。
●満州国組織の実権
国務院総務庁長官(最高権力者)
初代 駒井徳三(関東軍特務部長)
以降 大達茂雄
星野直樹(日本の大蔵省から、A級戦犯)
武部六蔵
古海忠之(大蔵省から、中国の軍事裁判で18年の刑)
総務庁次長
岸信介(商工省から、A級戦犯、総理大臣)
各部大臣次長
実業部 岸信介
法制局 武藤富男
交通局 平井出貞三
そしてこれら満州国の人事権は
内面指導と言う形で関東軍参謀第3課が持っていたので、
国の最高権力は関東軍が握っていた事になります。
岸信介が満州に行った時の第3課の課長は山下奉文でした。
当時の関東軍は司令官上田謙吉大将、参謀長板垣征四郎、
憲兵隊司令官東条英機で、70万の大兵力でした。
●古海忠之の回想録(岩波書店「世界」から)
重要事項は全部関東軍司令官の承認を経なければならなかった。
「何々の件承認ありたるに付き命により通牒す。関東軍参謀長」
という書面が総務長官に来なければ、政府は仕事をする事が出来なかった。
更に陰の実力者として元陸軍憲兵大尉の甘粕大尉がいました。
大杉栄や伊藤野枝を殺害したとされる人物です。
甘粕は表面的には満州国通信社や
満州映画協会の理事などをしていましたが、
陰で里見甫と協力して中国大陸を舞台に
数々の怪事件に関係し陰の帝王と言われていました。
里見甫が甘粕を通じて満州の影の部分に関係した事がわかります。
●福家俊一 政治家、元上海大陸新報社長
「塩田潮著 岸信介」の中に書かれた話
里見は上海で阿片の総元締めをやっていた。・・・・
その莫大な阿片の上がりが軍事機密費として使われた。
関東軍が1株、満州国政府が1株、甘粕が1株という形で持っていた。
それが月に80万円にもなる。
(現在の20億円位)だから、
甘粕は満州国の役人や軍人が内地(日本)に出張する時は、
飲むなら赤坂の「長谷川」、
泊りは「帝国ホテル」に行けという調子で、
後から一括して支払ってやっていた。
当時実質的に満州の政治と経済を動かしていたのは、
よく言われる「2キ3スケ」という5人の人物でした。
2キ 東条英機 星野直樹
3スケ 岸信介 松岡洋右 鮎川義介(日産の創始者)
その5人のバックに甘粕正彦がいて、
甘粕を中心にして10人ほどの会をやっていました。
他のメンバ-には古海忠之や政治家の椎名悦三郎がいます。
正式な名称もないような会ですが、
さらにその陰のバックとして里見甫が
阿片の販売益という面で関係している事は間違いないでしょう。
満州からの帰国後商工大臣になった
岸信介の選挙資金の出所が里見だったという説がありますが、
あながち出鱈目とはいえないと思います。
その他の話としては
●里見甫の墓に刻まれた「里見家の墓」という文字は岸信介が書いている。
●古海忠之(満州国国務院総務庁長官)が里見の墓誌を書いている。
「・・・・支那事変の拡大とともに大本営参謀影佐禎昭の懇望により
上海に移り大陸経営(注:阿片政策)に参画、国策の遂行に当った」
古海は戦後、岸信介の世話で東京卸売りセンタ-の社長になっています。
●佐藤栄作(後の総理大臣) 中支那振興会社社員 里見資金の援助を受けた
余談ですが
甘粕正彦が敗戦時自殺したときに、介護をした女性秘書がいました。
戦後銀座で長いこと「ベレ-」というスナックのママとして活躍しました。
甘粕の秘書という事は満州の生き証人です。
お店は多くの当時の関係者や
戦中戦後に活躍した漫画家が訪れ、
歌手の山口淑子(李香蘭)氏も訪れたそうです。
10年ほど前に高齢の為に閉店しました。