話は少し戻りますが、
国民政府軍事委員会(委員長蒋介石)は
11月15日から最高国防会議を開き、
11月20日首都を南京から
重慶に移転することに決定しました。
既に上海防衛戦から3ケ月の間に、
総兵力の1/3の約70万の兵力を
注ぎ込んだのですが、
25万人以上が死亡したと言われるほどの
惨敗だったため会議が紛糾しました。
首都を重慶に移すことには異論はなくても、
長期戦に備えてまず自主的に撤退するという意見と、
ギリギリまで徹底抗戦する意見との対立です。
トラウトマン和平工作に
期待をしていた蒋介石は、まずは海外に向けて
徹底抗戦の意志を示そうとしました。
最終的に徹底抗戦をすることになり、
唐生智が南京防衛軍の最高指揮官になりました。
12月の初めには防衛軍は15万人位になっていました。
12月7日蒋介石は後を唐生智に任せて
南京から脱出しました。
8日の日本軍による投降勧告文を拒否した
防衛軍は徹底抗戦の戦闘に入りました。
ぎりぎりの11日になって
蒋介石はやっと防衛軍の撤退命令を出しました。
しかし現地司令官唐生智の撤退決定は遅れ、
混乱の中で徹底は混乱しました。
さらにドイツ人ラ-ベを間に立てた
3日間の停戦交渉も失敗し
防衛軍は大混乱に陥りました。
逃げる兵士と、徹底抗戦する兵士・・・
同じ中国兵同士が殺しあう事態も起きました。
アメリカ人記者がこの時の様子を報道しています。
● シカゴ・デイリ-・ニュ-ス 1938年2月3日
アメリカ人記者 A・T・スティ-ル
数人の青年将校(中国軍)が、
退却する大群の進路に立ちはだかって、
食い止めようとしていた。
激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。
兵士たちはいやいや向きを変え、
前線に向ってのろのろと戻りはじめた。
だが盛り返したのは束の間であった。
30分以内に中国軍の士気は瓦解し、
全軍が潰走することになった。
もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。
何万という兵士が下関門に向って
群れをなして街路を通り抜けていった。・・・・
午後4時半頃、崩壊がやってきた。
はじめは比較的秩序だった退却であったものが、
日暮時には潰走と化した。
逃走する軍隊は、
日本軍が急迫撃をしていると考え、
余計な装備を投げ出した。
まもなく街路には捨てられた
背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。
唐生智は機密書類や官邸に火をつけて脱出し、
10数万の中国兵と住民は
日本軍の包囲と攻撃の中で
南京に残されてしまったのです。