1938年12月16日、
中国に対する日本政府の窓口機関「興亜院」が出来、
翌年3月に蒙彊連絡部が開設され
酒井隆中将が長官に就任しました。
その後は興亜院が蒙彊阿片政策の指導的役割をにない、
形としては「各機関は常に
駐蒙軍を中心として一致協力」という態勢となりました。
1939年9月1日、蒙古連合自治政府が成立しました。
この政府は主席も副主席も軍隊の長官も中国人が就任しましたが、
最高顧問として、金井章次が就任し実質的に日本の傀儡政権でした。
主席は蒙古人の「徳王」で、首都は張家口でした。
興亜院の連絡部も同じ張家口に置かれました。
この政権は第二の満州国を狙ったものと言われていまが、
日本以外には認められませんでした。。
日本軍が占領した中国各地では、
満州国の熱河地方以外では
この蒙彊地区が阿片の大量生産地でした。
それを維持するためにも
この地区を完全に確保する必要があったのです。
そしてこの地区の阿片の増産を安定させ、
全占領地で阿片の自給体制をとり、
蒙彊政権の財源確保を計画しました。
●1941年9月「蒙彊アヘン事情概説」
蒙古連合自治政府経済部煙政務科作成
(注:煙とはアヘンの事)
蒙彊、北支、中南支を通ずるアヘンの自給策確立を根本方針として
増産計画を樹立するため新制度を創立した・・・・
●1942年3月「最近蒙彊経済特殊事情 最高顧問上京原稿」
蒙彊政権の内部文書
・・・・健全なる発展はまず財政経済の確立にあるをもって、
とりあえず財源の確保に全力を傾倒し、
その一策としてアヘン行政については
1 アヘンの財政経済上における重要性
2 日支事変勃発にともなう占領地域内におけるアヘンの欠乏
3 外国アヘン輸入による資金の円ブロック外流出防止、
等の見地より・・・・従来個々なりしアヘン制度を撤廃し、
これが一元化をはかり、
準アヘン専売制度の形式を取り、
内においては漸減断禁政策、
外に対してはこれが増産を企てんとする趣旨にそうべく、
成紀(ジンギスカン紀元)734年(1939年)7月、清査制度の成立をみたり
蒙彊政府は1939年6月6日
「暫行アヘン管理令」を始めとした一連の法律を公布し、
7月1日にアヘン清査制度がスタートしました。
清査署という役所が作られ、
政府主導で11ケ所に支店を持つアヘン取扱商社が設立され、
取り締まりに名を借りた専売制度がスタ-トしました。
◎販売ル-ト
ケシ栽培者→土薬公司(アヘン商社)→
清査署→アヘン配給人(販売人)→中毒患者
収納した阿片の販売先は1933年度の統計によれば、
北京 34.6%
蒙彊管内 16.3%
天津 11.5%
上海 11.5%
他
となっています。
金額は売上げで798万円、
利益は476万円という暴利を得ていました。