アメリカにも細菌部隊がありました。
戦後日本に置かれた細菌戦部隊米国第406部隊には、
731部隊の幹部たちは戦犯の免責と引き換えに
協力、編入されていきました。
そしてアメリカ軍は1950年からの
朝鮮戦争に日本の旧731部隊員の協力を受けて
大規模な細菌戦を展開することになるのです。
●米国第406部隊
日本での発足は1946年5月横浜でスタ-トし、
やがて丸の内の三菱ビルに移転、
1956年に厚木に移った。
部隊は細菌学、化学、昆虫学、寄生虫学、
病理学、血清学などの研究部門をもち、
米軍将校教授9人、助教授2人、技術研究者25人、
さらに100人以上の日本人研究者で構成されていた。
1952年北朝鮮と中国が北京で開いた
国際科学委員会(ICS)には
英国、スエ-デン、ソ連、ブラジル、イタリア、
フランス等の研究者が参加して現地調査を行いました。
委員会は9月15日に
「アメリカ軍の細菌戦争」という報告書をまとめます。
「報告書の要旨」
●・・・1952年のはじめ以来、
朝鮮と中国にひどく異常な現象が起こっているので、
これらの国の人民と政府は、
アメリカが細菌戦をやっているのだと
主張するようになった。
細菌戦に関連のある事実を調べるために
つくられた国際科学委員会は現地に2ケ月以上も滞在し、
いまその活動を終わるところまできた。・・・・
朝鮮と中国の人民は、たしかに
細菌兵器の攻撃目標になっている。
この兵器を使っているのはアメリカ軍部隊であり、
その目的に応じて実に種々様々の
違った方法を使っているが、
そのうちのいくつかは第二次世界大戦中
日本軍の使った方法を改善したものであると思われる。
●・・・・日本が第二次世界大戦中にやった
ペストその他の細菌戦の古典的方法は、
容器または噴撒の方法によって、
ペスト菌に感染している大量の
ノミをばらまくことであった。
1952年のはじめから、北朝鮮のあちこちに、
ぽつぽつとペスト流行の中心点がたくさんあらわれた。
その際、いつもそれと一緒にたくさんの
ノミが突然あらわれたし、
その前にはかならずアメリカ機がそこを通過していた。
そのうち6件ではペスト菌がノミの中に
見つけ出されたことが証明された。・・・・
その撒布後の20日、その地区の発南里にペストが発生した。
村の人口600人のうち50人がペストにかかり、36人が死んだ。
●52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、
石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
●石井四郎の助手がネズミの大領生産のために
飼育所を運営してるとの新聞報道がある。
また、2001年6月23日にニュ-ヨ-クで開かれた
民衆法廷「コリアン国際戦犯法廷」でも
米国軍の生物兵器使用を有罪にしています。
恐らく日本の旧731部隊関係者が
協力したであろう事は北野政次の告白からもわかります。
●北野政次の告白 「日本医事新報」 防疫秘話 その4 から
・・・・マッカ-サ-からの指示で
朝鮮戦争の戦地で、約4ケ月間、
流行性出血熱ウイルスの確保に従事した・・・・
日本軍による細菌戦の歴史的事実を明らかにする会の
共同通信記者中嶋啓明さんの調査研究の報告があります。
内容を整理してみます
「ビルマ・ラング-ン発のテレプレス 1951年12月」
(注:まだ完全確認はされていません)
歴代731部隊長の石井四郎、北野政次と、
100部隊長だった若松有二郎らが米軍の顧問として、
ペスト菌、コレラ菌などを積み込んだ
貨物輸送機で南朝鮮に派遣された。
「キム・ソンジュンの証言」
日本支配下の京城帝国大学医学部で学ぶ。
戦後は北朝鮮の保健省衛生部防疫局長
現在(2002)は医学科学院通報センタ-勤務
☆米軍が中国志願兵部隊や
朝鮮人民軍に対して細菌爆弾を使用したとの報告で、
1952年キム・イルソン主席の命令で
戦線地帯の調査をした。
☆1月18日の未明米軍機が低空で何かを落としていった。
爆発はしなかったが、現地にはハエやノミ、
南京虫などの昆虫のほか,ネズミなどの動物,紙切れ,
磁器の破片が雪の上に無数に散らばっていた。
ある朝、伊川の現場で2つに割れた
磁器製の爆弾を見付けた。
私は以前731部隊の石井式磁器爆弾を
見た事があるので,すぐにそれだと分かった。
☆ 昆虫等の落下物を採取して検査をしたところ、
ハエからはコレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌が、
ネズミのノミからはペスト菌が検出された。
これらの調査をきっかけに研究を開始した
クム・ソンジュン氏の研究結果を整理してみます。
● 第1期
1950年の朝鮮戦争開始前から1951年6月まで
1)1950年4月から6月にかけて、
朝鮮軍の炊事場や水源地、
貯水池がサルモネラ菌で汚染され、
数百名に被害が出た。
2)1950年8月15日、
大邱周辺の洛東江沿岸で畑の瓜と
スイカを食べた兵士ら数百名が
コレラに感染して40%が死亡した。
3)1950年末から51年1月、
天然痘を流行させ、
江原道、黄海道、咸鏡南道の各地方だけで
3500人以上が発病し10%が死亡した。
4)1950年12月から1月にかけて
米韓軍に再帰熱や発疹チフスが発生、
撤退時に発病した韓国兵を残したため、
その後数万人が感染し20%が死亡した。
5)51年秋から冬にかけて
清川江の北から鴨緑江の南端までと
陽徳、咸興、元山に汚染された日用品、
お菓子、水産物が投下され、被害は数万に及んだ。
6)51年3月、元山沖で人民軍の捕虜ら数千人に
対し数十種の細菌を使った人体実験をした。
巨済島収容所でも人体実験は行なわれ、
第4収容所だけでも2000人以上が伝染病で死亡した。
ここでの人体実験では日本人の専門家が
参加したといわれている。
● 第2期
1951年7月から1953年7月の休戦協定まで
1)52年1月から4月まで、
5回飛行機連隊を動員して北半分の200の市、
169もの郡に対しのべ8000回にわたって、
細菌弾、毒ガスを投下。
散布した昆虫は20種類以上だった。
以下省略