●秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者 1984年12月の証言
部隊に着任して人体実験のことを知った時は
非常にショックを受けました。
あそこにいた科学者たちで
良心の呵責を感じている者は
ほとんどいませんでした。
彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。
・・・・死にゆく過程で医学の発展に
貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。
私の仕事には人体実験は
関係していませんでしたが、
私は恐れおののいてしまいました。
私は所属部の部長である菊地少将に
3回も4回も辞表を出しました。
しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。
もし出て行こうとするならば
秘かに処刑されると脅されました。
● 鎌田信雄 731部隊少年隊 1923年生 1995年10月 証言
私は石井部隊長の発案で集められた
「まぼろしの少年隊1期生」でした。
注:正式な1期から4期まではこの後に組織された
総勢22~23人だったと思います。
平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで
一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、
3時間しか寝られないほどでした。
午後は隊員の助手をやりました。
2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。
その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。
平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、
その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました
・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、
実験用のネズミを30万匹買い付けました。
ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、
安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、
そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。
安達には2回行ったことがありますが、
1~2日おきに何らかの実験をしていました。
20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、
毒ガスボンベの栓が開きました。
その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。
竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。
気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて
大丈夫だということでしたが、
風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、
あわてて逃げたこともあります
・・・・ホルマリン漬けの人
体標本もたくさんつくりました。
全身のものもあれば頭や手足だけ、
内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。
初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、
何日か食事もできないほどでした。
しかし、すぐに慣れてしまいましたが、
赤ん坊や子供の標本もありました
・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、
年齢、死亡日時が書いてありましたが、
名前は書いてありませんでした。
中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、
アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。
これはここで解剖されたのか、
他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。
ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人が
ピペットやシャ-レを造っていて、
ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。
731部隊には、子どももいました。
私は屋上から何度も、中庭で足かせを
はめられたままで運動している
“マルタ”を見たことがあります。
1939年の春頃のことだったと思いますが、
3組の母子の“マルタ”を見ました。
1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。
もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、
そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,
6~7歳の男の子がそばにいました
・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。
解剖後に取り出した内臓を入れた
血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。
それを経験してから1度だけでしたが、
メスを持たされたことがありました。
“マルタ”の首の喉ぼとけの下から
まっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。
これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、
それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。
正確なデータを得るためには、
できるだけ“マルタ”を普通の状態で
解剖するのが望ましいわけです。
通常はクロロホルムなどの麻酔で
眠らせておいてから解剖するのですが、
このときは麻酔をかけないで
意識がはっきりしているマルタの手足を
解剖台に縛りつけて、
意識がはっきりしているままの
“マルタ”を解剖しました。
はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、
すぐに声はしなくなりました。
臓器を取り出して、色や重さなど、
健康状態のものと比較し検定した後に、
それも標本にしたのです。
他の班では、コレラ菌やチフス菌を
スイカや麦の種子に植えつけて栽培し、
どのくらい毒性が残るかを究していたところもあります。
菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。
片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして
死んだ特攻隊員は、
天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。
731部隊のある人から、
「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」
と聞きました
・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり
日本全国から医者の先生方がやってきて、
自分たちが研究したり、
部隊の研究の指導をしたりしていました。
今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、
細菌学の研究のために部隊にきていました。
チフス、コレラ、赤痢などの研究では
日本でも屈指の人物です。
私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、
戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。
チフス菌とかコレラ菌とかを
低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。
航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が
飛行機に乗り込んで、
村など人のいるところへ細菌をまきます。
その後どのような効果があったか調査に入りました。
ペスト菌は、ノミを介しているので
陶器爆弾を使いました。
当初は陶器爆弾ではなく、
ガラス爆弾が使われましたが、
ガラスはだめでした。
・・・・ペストに感染したネズミ1匹に
ノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、
ノミが地上に散らばるというやり方です
・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤はダイオキシンです。
もちろん731部隊でもダイオキシンの
基礎研究をやっていました。
アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。
朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、
この効果などを調べているのですが、
このことは絶対に誰も話さないと思います。
アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って
自分の軍隊を防衛できなくなると困るので
連れて行ったのです。
1940年に新京でペストが大流行したことがありました。
(注:731部隊がやったと言われている)
・・・・そのとき隊長の命令で、
ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、
肺や肝臓などを取り出して標本にし、
本部に持って帰ったこともありました。
各車両部隊から使役に来ていた人たちに
掘らせ、メスで死体の胸を割って
肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、
明らかにペストにかかっていると
わかる死体の臓器をまるまる
持っていったこともあります。
私にとっては、これが1番いやなことでした。
人の墓をあばくのですから・・・・
● 匿名 731部隊少佐 薬学専門家
1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から
昭和17年4月、731と516両部隊が
ソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で
3日間、合同実験をした。
「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、
4つのトーチカに1回2~3人ずつが入れられた。
防毒マスクの将校が、
液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾を
トーチカ内に投げ、
窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。
「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや
脈拍を見るため体にコードをつけ、
約50メートル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、
「死に至る体の変化」を記録した。
死が確認されると将校たちは、
毒ガス残留を調べる試験紙を手に
トーチカに近づき、死体を引きずり出した。
1回の実験で死ななかった者には
もう1回実験を繰り返し、全員を殺した。
死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。
「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。
この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、
死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。
ホスゲンを浴びせても死なず、
ある軍医が血管に空気を注射した。
すぐに死ぬと思われたが、死なないので
かなり太い注射器でさらに空気を入れた。
それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。
この人の死体を解剖すると、
内臓が若者のようだったので、
軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。
昭和17年当時、
部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。
佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は
箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、
マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、
凍傷になっていく状況を調べた。
婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。
婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、
その子もこの実験に使われた。
その後しばらくして監獄をのぞいたが、
5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。
死んだのだと思う。
●山内豊紀 証言 1951年11月4日 中国档案館他編「人体実験」
われわれ研究室の小窓から、
寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。
吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、
一定の時間内に一定の距離を往復させ、
どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。
みていると彼らは日ましに痩せ衰え、
徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。
●秦正 自筆供述書 1954年9月7日 中国档案館他編「人体実験」
私はこの文献にもとづいて
第一部吉村技師をそそのかし残酷な実験を行わせた。
1944年冬、彼は出産まもない
ソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。
まず手の指を水槽に浸してから、
外に連れだして寒気の中にさらし、
激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。
これは凍傷病態生理学の実験で、
その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。
日を改めてこれをくり返し実施した結果、
その指はとうとう壊死して脱落してしまった。
(このことは、冬期凍傷における手指の
具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた)
その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。
●上田弥太郎 供述書 731部隊の研究者 1953年11月11日
中国档案館他編「人体実験」
1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき
中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。
すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、
氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、
一定の時間が経過してから取り出した手を、
こんどは小型扇風機の風にあてていて、
被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。
残酷な凍傷実験を行っていたのである。
●同上 上田弥太郎 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言
・・・・すでに立ち上がることさえできない
彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、
足を動かすたびにチャラチャラと
鈍い鉄の触れ合う音をたてる
・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい
警備員が監視の目をひからせており、
警備司令も覗いている。
しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを
気にとめようともしない。
こうしたことは毎日の出来事であり、
別に珍しいものではない。
警備員は、ただこの中にいる200名くらいの
中国人が素直に殺されること、
殺されるのに反抗しないこと、
よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ
・・・・ここに押し込められている人々は、
すでに人間として何一つ権利がない。
彼らはこの中に入れば、
その名前はアラビア数字の番号と
マルタという名前に変わるのだ。
私たちはマルタ何本と呼んでいる。
そのマルタ000号、彼がいつどこから
どのようにしてここに来たかはわからない。
● 篠塚良雄 731部隊少年隊 1923年生 1994年10月証言
・・・1939年4月1日、
「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました
・・・・5月12日中国の平房に転属になりました
・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは
「関東軍司令官の許可なき者は
何人といえども立入りを禁ず」と
書かれた立て看板でした。
建物の回りには壕が掘られ
鉄条網が張り巡らされていました。
「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」
という注意が与えられました
・・・・当時私は16歳でした。
私たちに教育が開始されました・・・・
「ここは特別軍事地域に指定されており、
日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。
見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」
というようなことも言われました。・・・・
「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、
主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、
併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました
・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と
車載用、駄載用、携帯用と分類されていました
・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので
“ミクロコックス”と言われていました
・・・・細菌の中で1番小さいものも
通さないほど性能がいいと聞きました
・・・・私は最初は動物を殺すことさえ
直視できませんでした。
ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか
青酸カリなどの毒物を注射して
痙攣するのを直視させられました。
「目をつぶるな!」と言われ、
もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです
・・・・私に命じられたのは、
細菌を培養するときに使う菌株、
通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。
江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、
瀬戸川班ではコレラ菌と言うように
それぞれ専門の細菌研究が進められていました
・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。
大型の高圧滅菌機器が20基ありました
・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が
4基ありました
・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。
この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。
ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは
間違いありません
・・・・ここの設備をフル稼働させますと、
1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。
1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです
・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました
・・・・ペストの感受性の一番強い動物は
ネズミと人間のようです。
ペストが流行するときにはその前に
必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。
まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。
これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。
そうするとネズミは死にますが、
ノミは体温の冷えた動物からは
すぐに離れる習性を持っているので、
今度は人間につく。
おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います
・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を
毒力試験の名のもとに行ないました
・・・・私は5名の方を殺害いたしました。
5名の方々に対してそれぞれの方法で
ペストのワクチンを注射し、
あるいはワクチンを注射しないで、
それぞれの反応を見ました。
ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。
その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。
睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。
ペストの進行にしたがって、
真黒な顔、体になっていきました。
まだ息はありましたが、
特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました
・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。
特別班の班員はこの殺害した人たちを、
灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。
注:ノモンハン事件
1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近の
ノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。
ハルハ河事件とも言う。
4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力の
ソ連軍に日本軍は歯が立たず、
約17,000人の死者を出した。
ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。
あまりにみっともない負け方に
日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。
731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に
赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。
参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、
作山元治軍医大尉、瀬戸尚二軍医大尉、
清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。
ハバロフスクの裁判記録に証言があります。
● 鶴田兼敏 731部隊少年隊 1921年生
1994年731部隊展の報告書から
入隊は1938年11月13日でしたが、
まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした
・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている
監獄の7・8棟の中庭に、
麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。
不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、
「“マルタ”だ」と言います。
しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。
するとマルタとは死刑囚だと言うんです。
軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、
「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・
基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。
そこでは蚊、ノミ、ハエなど
あらゆる昆虫、害虫を飼育していました。
ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、
半分ぐらいまでおが屑を入れ、
その中にノミの餌にするおとなしい
白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。
そうするとたいてい3日目の朝には、
ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。
死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。
一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。
ノミの採取は月に1,2度行なっていました
・・・・ノモンハン事件の時、
夜中に突然集合がかかったのです
・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。
「今からある容器を下ろすから、
蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。
私たちは言われたままに作業をしました
・・・・基地に帰ってくると、
石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。
「何かやばいことをやったのかなあ。
いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました
・・・・後で一緒に作業した内務班長だった
衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、
あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです
・・・・いまだに頭に残っているものがあります。
部隊本部の2階に標本室があったのですが、
その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首が
ホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。
中国人の男性でした。
また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、
丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。
それもやはり中国人でした。
今もそれが目に焼きついて離れません。
●小笠原 明 7311部隊少年隊 1928年生れ
1993~94年の証言から
・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの
標本室の掃除を命じられました
・・・・ドアを開けたところに、
生首の標本がありました。
それを見た瞬間、胸がつまって
吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。
標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。
すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。
全身が標本となっていました。
またその横にはガス壊疽の標本があり、
太ももから下を切り落としてありました。
これはもう生首以上にむごたらしい、
表現できないほどすごい標本でした。
拭き掃除をして奥の方に行けば、
こんどは消化器系統の病気の
赤痢、腸チフス、コレラといったもので
死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました
・・・・田中大尉の部屋には
病歴表というカードがおいてあって、
人体図が描いてあって、
どこにペストノミがついてどのようになったか
詳しく記録されていました。
人名も書いてありました。
このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。
田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです
・・・・田中班と本部の研究室の間には
人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました
・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を
毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました
・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを
詰込んで投下実験を何回も行ないました
・・・・8月9日のソ連の参戦で
証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。
10日位には殺したマルタを
中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。
●千田英男 1917年生れ 731部隊教育隊 1974年証言
・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番
・・・・以上10本頼む」
ここでは生体実験に供される人たちを
”丸太”と称し、一連番号が付けられていた
・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。
4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、
そこには2階まで窓がなく、
よじ登ることもはい上がることもできない。
つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・
*石橋直方 研究助手
私は栄養失調の実験を見ました。
これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。
この実験の目的は、
人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを
調べることだったろうと思われます。
これには2人のマルタが使われていました。
彼らは部隊の決められたコ-スを、
20キログラム程度の砂袋を背負わされて
絶えず歩き回っていました。
1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。
食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、
飲むのは水だけでしたからね、
そんなに長いこと生きられるはずがありません。
●越定男 731部隊第3部本部付運搬班
1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ-
-東条首相も視察に来た
本部に隣接していた専用飛行場には、
友軍機と言えども着陸を許されず、
東京からの客は新京(長春)の飛行場から
平房までは列車でした。
しかし東条らの飛行機は専用飛行場に
降りましたのでよく覚えています。
-マルタの輸送について
・・・・最初は第3部長の送り迎え、、
郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、
間もなく隊長車の運転、
マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。
マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、
ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、
それに領事館の4ケ所で受領し
4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。
日本領事館の地下室に手錠をかけた
マルタを何人もブチ込んでいたんですからね。
最初は驚きましたよ。
マルタは特別班が管理し、
本部のロ号棟に収容していました。
ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、
手錠は外せるようになっていたものの、
足かせはリベットを潰されてしまい、
死ぬまで外せなかった。
いや死んでからも外されることはなかったんです。
足かせのリベットを潰された時の
マルタの心境を思うと、やりきれません。
-ブリキ製の詰襟
私はそんなマルタを度々、
平房から約260キロ離れた安達の牢獄や
人体実験場へ運びました。
安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、
彼らの頭上に、超低空の飛行機から
ペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。
マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、
マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、
頭を下げるとブリキが首に食い込む
仕掛けになっていましたから、
マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。
むごい実験でした。
-頻繁に行われた毒ガス実験
731部隊で最も多く行われた実験は
毒ガス実験だったと思います。
実験場は専用飛行場のはずれにあり、
四方を高い塀で囲まれていました。
その中に外から視察できるようにした
ガラス壁のチャンバ-があり、
観察器材が台車に乗せられて
チャンバ-の中に送り込まれました。
使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、
一酸化炭素ガスなど様々でした。
マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、
10人ぐらいの観察員がドイツ製の
映写機を回したり、ライカで撮影したり、
時間を計ったり、記録をとったりしていました。
マルタの表情は刻々と変わり、
泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、
観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。
私はこの実験室へマルタを運び、
私が実験に立ち会った回数だけでも
年間百回ぐらいありましたから、
毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。
-逃げまどうマルタを
あれは昭和19年のはじめ、
凍土に雪が薄く積もっていた頃、
ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。
この実験は囚人40人を円状に並べ、
円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、
感染具合をみるものですが、
私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、
爆発の瞬間を待っていました。
その時でした。
1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、
彼らは一斉に逃げ出したのです。
驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、
「車で潰せ」と叫びました。
私は無我夢中で車を飛ばし、
マルタを追いかけ、
足かせを引きずりながら逃げまどう
マルタを1人ひとり潰しました。
豚は車でひいてもなかなか死にませんが、
人間は案外もろく、直ぐに死にました。
残忍な行為でしたが、
その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に
731部隊のことがバレてしまって、
我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。
-囚人は全員殺された
731部隊の上層部は日本軍の敗戦を
いち早く察知していたようで、
敗戦数ケ月前に脱走した憲兵もいました。
戦局はいよいよ破局を迎え、
ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、
石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、
「731の秘密は墓場まで持っていけ。
機密を漏らした者がいれば、
この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、
部隊は撤収作業に入りました。
撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。
大半は毒ガスで殺されたようですが、
1人残らず殺されました。
私たちは死体の処理を命じられ、
死体に薪と重油かけて燃やし、
骨はカマスに入れました。
私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。
被害者は全員死んで証言はありませんが、
部隊で働いていた中国人の証言があります。
●傳景奇 ハルピン市香坊区 1952年11月15日 証言
私は今年33歳です。
19歳から労工として「第731部隊」で働きました。
班長が石井三郎という石井班で、
ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。
私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。
1. 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で
「ロ号棟」の中でいくつかの器械が
血をかき混ぜているのを見ました。
当時私は若く中に入って仕事をやらされました。
日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。
2. 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき
不注意から箱がひっくりかえって壊れました。
煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、
涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。
3. 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、
しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。
壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち
3頭を殺してしまったのを見ました。
4. 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、
私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。
5. 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た
1200人以上の労工が工藤の命令で
日本人の兵隊に冷水をかけられ、
半分以上が凍死しました。
6. 工場内で仕事をしているとき
動物の血を採っているのを見たし、
私も何回か採られました
●関成貴 ハルピン市香坊区 1952年11月4日 証言
私は三家子に住んで40年以上になります。
満州国康徳3年(1936年)から第7731部隊で
御者をして賃金をもらい生活を支えていました。
康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で
日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、
モルモット、それにサル等の動物の血を注射器で採って、
何に使うのかわかりませんでしたが、
その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを
毎日見るようになりました。
その後康徳5年6月のある日
私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、
ちょうど数を勘定していると
銃剣を持った日本兵が何名か現れ、
馬車で煉瓦を運んでいた中国人を
土壁の外に押し出した。
しかし私は間に合わなかったので
煉瓦の山の隙間に隠れていると
しばらくして幌をつけた大型の自動車が
10台やってきて建物の入り口に停まりました。
この時私はこっそり見たのですが、
日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、
足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。
1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、
自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。
ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には
中国人をいつも外に出しました。
●羅壽山 証言日不明
ある日私は日本兵が通りから
3人の商人をひっぱってきて
半死半生の目にあわせたのを
どうすることもできず見ていました。
彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、
残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。
猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。