明治以降沖縄は一日も早く日本人
つまり皇国民なろうと努力しました。
日露戦争のとき、最も勇敢だったのは
沖縄出身兵(熊本第6師団)だったといわれている位です。
本土の日本人以上に愛国心に燃えていた面があります。
ですから「根こそぎ動員」での陣地作りや
食料供出にも全面協力してきました。
それだけに住民は沖縄守備軍が
住民の命や財産を守ってくれるものと信じていました。
しかし戦闘が始まると沖縄の思いは裏切られてしまいました。
戦陣訓(本訓3-7)には住民を愛護すべしとあるのに、
自国の住民を苦しめたのです。
軍による次のような行為がしばしば行なわれました。
●スパイ容疑で殺す
1945年4月9日 命令書 球軍会議
・・・・軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず
沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分す
●投降する住民を殺す
●集団自決を強制する
●避難していた壕から住民を前面に追い出し、
兵隊が安全な場所に逃げ込む
●住民を虐殺する
●食料を掠奪する
多くの沖縄住民が戦闘ではなく
自国の軍隊に殺害されました。
生き残った住民が「怖かったのは日本軍の方だった」
「軍隊は住民を守らなかった」と語るのはこのことです。
●1988年教科書裁判で沖縄戦の記述が取り上げられ、
「住民虐殺」と「集団自決」が焦点になりました。
当時の日本軍を擁護する国側証人として、
元防衛庁の一富嚢氏と作家の曽野綾子さんが意見を述べました。
沖縄人の気持ちを考えるとひどい意見です。
意見 集団自決は住民自らの選択である
軍隊は住民を守るためにあるのではない
壕追い出しは作戦遂行上必要な事であった
沖縄では地元行政も住民を守る立場には立たず、
軍の方針に追従していました。
当時ですからある程度は仕方がないのかもしれませんが、
行政の上層部がほとんど日本から派遣されていたせいもあります。
●1945年4月27日、
南部で最後の警察署長と市町村会議が開かれました。
その会議で県から出た指示事項です。
「消えた沖縄戦」 浦崎純 より
◎残忍な敵は我々を皆殺しにすると思う、
敵を見たら必ず撃ち殺すというところまで敵愾心を高める事
村に敵が侵入した場合1人残らず
戦えるように竹やりや鎌などを準備して
その訓練を行なって自衛抵抗に抜かりのない構えをとろう
軍事を語るな、スパイの発見逮捕に注意しよう
住民を守るべき行政も、安全より総力戦で戦えと指導していたことがわかります。
日本からは差別感を持たれ、
軍事的には捨石として少ない武力しかなく、
沖縄側は献身的な愛国心を持ち・・・・
持久戦のために徹底的に住民が総動員されました。