三光作戦という名称は
日本側が付けた名前ではありません。
日本では「燼滅掃討作戦」「粛清作戦」「治安作戦」と呼んでいました。
しかしその作戦のあまりの凄まじさのため、
中国側が三光作戦と呼んだのです。
●日本軍は逆に全将兵の心得として
「焼かず、犯さず、殺さず」を三戒とした。
1943年4月の小冊子
「国民政府軍の参戦と北支那派遣軍将兵」の中で
北支那方面軍司令官岡村寧次大将の言葉として出てくる。
三光とは、
焼き尽くし(焼光)、殺し尽くし(殺光)、奪い尽くす(搶光)の
3つの光の意味です。
泥沼の戦況を打開するために、
日本軍はゲリラの出没する地帯を
無人化する計画を立てました。
その為住民を強制移動させました。
その作戦の過程でゲリラや住民の
区別が出来ないため多くの悲劇的な事件が起こったのです。
ゲリラ、一般人、子ども、女性等生きている者は全て殺害し、
食料は奪い尽くし、村を焼き払ったのです。
あとはただの荒野が残り、
日本にとっては安全だと言うわけです。
その徹底さの為、証拠すら残らない村もあったそうです。
そのうち日本国内の労働力不足のため、
働ける男は殺さずに強制連行して
満州や日本国内で強制労働を強いるようになります。
日本へは約4万人が連行されました。
(強制連行は別の原稿に書きました)
日本軍が起こした南京事件やその他の事件では、
作戦に付随して偶発的に起きた面があり、
虐殺そのものが目的だったわけではありません。
しかしこの三光作戦は虐殺そのものが作戦目的でした。
そこにこの作戦の異常さが表れています。