強制、半強制にかかわらず、
朝鮮半島からは大量の慰安婦が動員されました。
このことは日本の植民地支配があって
初めて可能になったことです。
もともと朝鮮の伝統社会では、
日本の遊郭のように権力に守られた
売春産業はなかったといわれています。
● 植民地支配の過程で・・・・
1. 様々な形の風俗産業、
公娼制度が日本から持ち込まれ、
同時に植民地の弱みに付け込んで
人身売買、誘拐、詐欺などの
動員手段が行なわれるようになりました。
2. 日本帝国は支配を拡大すると、
支配地域に女性を供給するために
朝鮮内の売買春システムがより強化されて、
満州、サハリン、台湾地等に動員されました。
3. アジア太平洋戦争が始まると、
完成したシステムをフルに利用して、
強制、半強制の従軍慰安婦の
大量動員が可能になったのです。
本来ならば売春業を取り締まるはずの警察
(公娼制度では必ずしもそうではありませんが)が、
業者と結託しています。
特に非支配国民でしたから警察はより癒着し、
女性は弱い立場におかれていました。
警察の行き過ぎを戒めた通牒があります。
● 警第702号「芸娼妓酌婦逃走者取扱に関する件」
朝鮮警察協会 1926年8月18日(原文カナ)
従来、芸娼妓・酌婦・雇女等逃走するとき、
抱主または雇主からの願出に対し、
警察官吏公力を行使して、
これを取り押さえ出願者に引き渡すむきもある。
これは単なる民事上の契約違反に付き、
強制がましき措置に出るのは穏当ではないし、
ともすれば警察の立場を誤解せらるる懸念もある。
朝鮮半島ではありとあらゆる名目を考え出して
朝鮮人を動員したのですが、
多く使われた名称は「○○挺身隊」でしょう。
「挺身隊」
◎農村挺身隊
◎内鮮一体挺身隊
◎国語(日本語)挺身隊
◎報道挺身隊・・・・
これらの挺身隊は男性中心で
組織されましたが、
1943年以降は女子の挺身隊も準備されました。
◎婦人農業挺身隊
◎特別女子青年挺身隊
◎女子救護挺身隊
◎女子勤労挺身隊
女子の場合はこれらの挺身隊とは別に
処女供出と言う言葉が使われたり、
別の言葉も使われました。
◎各種女子挺身隊
◎慰問団
◎歌劇団
◎慰安婦募集(ずばりこのままの応募広告もありました)
このように色々な言葉が使われていたので、
韓国では一括して、日本軍の慰安婦問題を
「挺身隊問題」と呼ぶ事が多くなっています。
2002年11月現在で自ら申告した
元慰安婦は205人になっていますが、
そのうち生存者は137名になってしまいました。
彼女たちの年齢を考えると一刻も早い解決が必要です。
● 水曜デモ
日本ではあまり報道されませんが、
韓国にある日本大使館前で毎週水曜日に
元慰安婦や支援者が中心になって
デモが行なわれています。
1990年に挺対協(挺身隊問題対策協議会)が結成されて以来、
日本政府に慰安婦問題について
解決を求め続けてきましたが、
一向に誠意ある解決がされないため、
解決されるまでと言う期限付きで始まったデモです。
1992年1月8日にスタ-トしましたから、
既に1000回を超えています。
2011年12月14日は1000回目と言うことで
過去最大のデモになりました。
日本の多くの国会議員も参加や協力をしています。
民主党
今野東 稲見哲男 大河原雅子 大島九州男
那谷屋正義 工藤仁美 櫛渕万里
社会民主党
福島瑞穂 服部良一
日本共産党
高橋千鶴子 紙智子
沖縄社会大衆党
糸数慶子
2014年1月8日水曜デモは22年目、
1108回目となりました。
挺対協が調査した資料を見てみます。
「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」1993年
● 8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、
朝鮮人慰安婦が圧倒的多数と思われる。
● 調査した内、1人だけ連行前に結婚した経験があったが、
その人も連行した時点では単身でソウルにいた。
残り全員が未婚で、 処女であったと判断される。
遊郭出身者はいなかった。
● 年齢 16歳未満が3人、
残りも16~7歳に集中している。
● 連行した人と方法
軍や国の文書で
動員方法を具体的に説明する資料はないが、
実際の聞き取り調査では連行したのは、
民間人、官勧誘、軍人、憲兵、軍属である。
また連行方法としては暴力、就業詐欺、
誘拐、拉致、売買などどなっており、
ほとんどが強制連行となっています。
注:日本が当時加入していた国際条約に
「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に
関する国際条約」がありましたが、
その第2条は「他人の情欲を満足せしむる為、
醜業を目的として詐欺に依り又は
暴行、脅迫、権力乱用其の他一切の
強制手段を以て成年の婦女を勧誘し誘引し
又は拐去したる者は・・・・
罰せらるべし」となっています。
尚、第1条では、未成年の場合は
たとえ本人の承諾を得ても罰せらるなっています。
● 連行された時期
1933年に満州に出来た軍慰安所で
朝鮮人慰安婦が多数いたという記録があるが、
挺対協が調査範囲では1936年が最初になっている。
● 連行された場所
日本軍が駐屯した全てのところで、
満州から南洋群島までを軍隊と共に移動した。
● 給料
慰安所の規定では利用料金が決まっているが、
ほとんどが貰っていない。
● 戦後の帰還
終戦時日本軍が連れて帰還した例は稀で、
ほとんどは放置され自力か
米軍の助けによって帰還した。
村山政権時に発足した
「女性のためのアジア平和国民基金」は
2002年5月1日に償い金支払いが終了し、
約30人の女性が受け取ったとされています。