回想録はきちんとノ-トに整理したもの、
メモ、口述等色々あります。
それらを整理しました。
「支那事変に於ける南京の戦闘」
(戦後原稿用紙に鉛筆で書かれたもの)
昭和12年9月13日充員招集、
東部第72部隊(世田谷の野戦重砲兵第8連隊)入隊。
そのまま、街道部隊、
工藤隊(野戦銃砲兵第15連隊第2中隊)、
観測小隊 通信掛下士官
昭和12年9月22日 大阪港出発
昭和12年9月26日 上海上陸
昭和12年9月27日~10月26日
大場鎮附近の戦闘
昭和12年10月27日~11月11日
蘇州河畔の南市攻略船
昭和12年11月12日~12月1日
南翔、嘉定、太倉、常熟、
無錫、常州及び江蔭攻略戦
昭和12年12月2日~12月14日
南京、烏龍山附近の戦闘
昭和12年12月15日~12月23日
南京待機
昭和12年12月24日~昭和13年4月21日
鎮江附近の警備
昭和13年4月24日 徐州作戦出発
● 附記(本人記)
◎上海附近まで
本隊の野重8が北支へ出征直後
編成された野重15は、
連隊長は街道少佐(普通は大佐)、
菅野大隊長は大尉(普通は少佐)、
工藤中隊長は中尉(普通は大尉)。
現役は将校の一部。
下士官は連隊本部に一人。
勿論一般兵は0の老兵ばかりの、
全滅してもよいと編成との噂であった。
中隊で一人精神異常者が出て残置。
連隊段列で切腹自殺した者が居た。
鉄帽は5分の1位しか支給されず、
それも英兵の様な形でへんなものであった。
服は暑い盛りに冬服を着せられた
(補給出来ぬため)。
予防注射も間に合わず、乗船してからもした。
輸送船は大阪商戦の東崗丸
(4200トン 注:従軍手帖では4100トン)、
齢30年の老貨物船で、
押し込められた船倉は蚕棚のように
段々に仕切られ、
やっと座っても頭がぶつかるくらいで、
手足も伸ばせず、用便から戻っても、
入るの苦労する始末で、
同船の迫撃砲隊の馬が上段の方で、
空気は白布の1米位の丸筒の
通風筒で下の方に導入されていた。
揚子江の呉淞砲台を過ぎ、
黄浦江に入り、駆逐艦トモヅルの砲撃、
飛行機の銃撃の中、揚子浦に上陸す。
1. 敵陣は縦深5(4)キロの圧倒的に優勢
2. 歩兵の68連隊などは既に
第4次補充をしていた。
上陸以来の夏服の兵は、
小隊で4人ぐらいしか残っていなかった。
3. 野戦病院は道端にアンペラ敷きで、
負傷兵の傷口にはウジが沢山湧いていた。
砲兵さんお願いしますと拝まれた。
前線の負傷兵は大八車で運んでいた。
4. 沢山の敵死体は黒く膨らみ、
異臭を放っていて、
始めのうち軍医は、
褌でマスクをしろと怒鳴り廻っていた。
5. 歩兵の顔色は暑い盛りに、
栄養不良の為か菜っ葉のような
異様な青い色をしていた。
移動中、水!水!と駆け寄って来るので、
石油缶に入れた水を飲まそうと
剣で切り開こうとしたら、
待てずに首を突っ込み、
ブリキの切り口で顔中
血だらけになりながら争って飲んだ。
6. クリ-クが多く、
工兵が埋めた応急の道を渡ると、
ブワブワして死体の手足が出ていた
7. 住民は勿論、
敵兵の姿はなかなか見えないので、
観測の為壕の歩兵の頭を飛び越え、
400米くらいまで進出した。
歩兵に砲兵さん無茶するな、と怒鳴られたが、
敵発射の位置の見当が付くが
敵兵の姿は見えないものである。
8. 発火、弾着により敵砲兵を発見。
砲撃せんと大隊長に報告すると、
8発を以って制圧すべしと命ぜられる。
何時でも同じ命令なので「8発隊長」と言われた。
(補給無き為)
9. 何と言っても我が部隊は
十糎加農砲を牽引車で引く、
中支唯一の機械化砲兵で、
軍直轄の独立部隊で
最重要作戦部隊へその都度協力させられて、
お蔭で危険なことも多かったが
常に一線で働いた事になった
10. 全員赤痢に罹る。
天幕の周囲は下痢便だらけ、
電線は蝿で見えなくなるくらい。
昼夜爆竹のような敵弾で、
用便も便だらけの塹壕を右往左往しながらで、
当たって死んだ者もいた。
又、コレラで死んだ者もいた。
上海から南京への拡大(4行編集時追記)
日本政府は不拡大方針を取っていたが、
突然南京攻略が決まった。
時期的に従軍日記を見てみると
昭和12年11月12日
突然陣地変更
南翔、馬陸鎭を過ぎて嘉定方面に追撃前進
◎南京の戦闘
昭12・12・7~12・12・23
南京の総攻撃の前に、
松井司令官が投降勧告を三度なしたが応ぜず
(敵司令官は逃亡したとのことであった)
7日
句容飛行場
8日
砲兵学校 迫撃砲盛んに落下
9日
歩兵学校 大隊衛兵司令勤務
10日
南京城に迫り陣地占領、
中山陵、光華門を砲撃破壊、
敵弾来ること大場鎭以来、
敷設地雷も所々あり、
南京は堅く城壁より東側
約2500米まで、観測所を進出。
第二大隊編入
12日
安豆山(注:回線図には安豆宮)観測所に於いて、
夕刻敵速射砲らしきもの身辺に落下。
耳痛し。
13日
南京城頭。
日章旗翩翻と翻る。
更に城壁近くに陣地変更
それ迄、城門から又城壁からと
日の丸の旗を振りつつ幾組みもよじ登り、
突撃しては全滅したが、
○○部隊の○○中尉が遂に成功したのである。
後刻城頭に上ってみたら、
○○○○占領等と、
赤青鉛筆等で書かれた板切れ等が
幾つかあったが、皆戦死したのである。
我が第1大隊及び第1中隊が
昨夜以来敵襲に遭い戦死傷者出すとの報あり。
我が第2中隊は第1大隊に復帰、
直ちに戦闘開始す。
夜に入り更に敵襲あり。
2度抵抗線に付き、
工兵の一部の協力を得て戦う。
連隊本部も損害あり。
(敵)大部隊に遭遇したのである。
大河の流れのように、
我が砲まで乗り越えられる始末で、
彼我入り乱れ芋を洗うようであった。
大隊長は地隙に伏して踏まれても声なし。
騒然たる中、
負傷して中隊長と叫びそれから、
天皇陛下万歳叫ぶ者もいたが、
そういうのは大丈夫だから、
アッチの方を看てやれと言われ、
衛生兵は飛び回っていた
14日
観測所より敵を発見、
余り大部隊の為め砲撃を躊躇していたら
白旗が見えたので、
歩兵1ケ中隊が出向き、
その内の15000~20000を
俘虜として連行、武装を解除した。
皆新しい服装で集結し腰を下ろしていて
実に壮観というか驚いた。
監視する少数の我が方は
乞食以下の有様であった。
敵が石コロ1つづつでも持って抵抗してきたら、
反対にやられてしまうだろうと
恐ろしいくらいだった。
俘虜が余りに多いので、
砲兵団長が適当に処置しろと
云われたと伝聞した。
誰でも何人でも引取って
切りたいだけ切ってもよしとか色々あった。
隠し持っていた手榴弾で
何やら叫んで自爆した少佐がいた。
(蒋介石万歳とでも云ったのか)
又下手に首を切り刀が曲がって
鞘に入らなくなった軍医が居た。
それから城壁の隅に多数押し込め
鉄条網を張り機関銃で射殺したり、
尚又石油を掛け焼き殺したりした隊もあった。
聞いたのだが、
まだ息をしているのに
止めを刺すと死体の中に入り
銃剣で突いていたら
反対に殺されたのがいたとか。
我が従軍僧が惨憺たる現場で
手を合わせ読経をしているのも見た。
揚子江側の下関の城門付近で
布切れのようなものが沢山ぶら下がっていたが、
多分逃げるのに使ったものだったろう。
揚子江にトラックで投棄された沢山の死体が、
後日まで(徐州戦の渡河の時)
くずれた豆腐のように
フニャフニャになり浮いているのを見た。
遂に一般住民は見なかった。
15日
城内に入り軍官学校に宿営。
部下の福田観測車長は「委員長」と
書かれた襟章を見つけて来た。
(蒋介石の物だったろう)
また或る砲兵連隊長は宗美齢の
ベットを持って行ったとか
17日
入城式
18日
慰霊祭
24日
軍官学校-句容-
江蘇省国民軍事訓練所(鎮江手前)に集結
13年
1月1日
8時半連隊会食
東に向い拝礼
天皇陛下万歳三唱 会食
良い正月を迎う
2日
空襲あり
次期作戦まで鎮江周辺の警
備、掃蕩、訓練、整備、又砲台の解体等
2月11日
軍司令官鳩彦王より
街道部隊に感状授与さる
4月22日
徐州代会戦のため出発
◎徐州大会戦
昭和13年
4・22
鎮江出発→南京
4・23~24
下関→浦口へ渡河
鳳陽、蚌埠
萩須中将の指揮下に入る
万難を排し、
火砲1門になるも一線の歩兵と
行動を共にすることになり、
人員以下、大部を残置す
5・5
払暁懐遠より総攻撃開始
5・9
蒙白
武雄大尉戦死(柳川中将女婿)
5・14 永城
5・17 米集
5・18
覇王山→臥牛山に陣地占領
薄暮、第一線の両角部隊本部への
連絡の命を受け、
中隊と大隊より選抜せる、
各5名の決死の通信兵を合わせ指揮して、
迫撃砲激しく落下の中前進、
任務を達成す
5・19
9時20分 両角部隊 徐州入城
◎武漢攻略戦(武漢三鎮=武昌、漢口、漢陽)
昭和13年
6・27~
金陵兵工廠(金陵とは南京の別名)
9・28
南京下関より神瑞丸(2900屯)にて
揚子江上流、九江へ遡行
9・29
危険区域に入り、
我駆逐艦が煙幕を張るも、
17時頃南岸より砲撃され、
煙突、機関室、船倉等にガンガン命中
蒸気が噴出、浸水、傾斜、死傷11名、航行不能、
沿岸に座礁し全員褌一つ銃剣を持って
切り込みの準備と云うことになったが、
海軍に救援される。
左舷の大穴は7ケ所あった。
10・1
安慶にて応急修理
九江に上陸せず
10・15
馬頭鎮に上陸 陽新、文治、顎城
10・25
葛店鎮、観音山砲台、白虎山砲台攻撃、
戦闘し乍ら陣地露営
10・26
早朝 命令受領に行き
畑4支隊が夜半、
十里余を強行突入せるを知る
(歩兵をトラックに積載、
ライトを光々と付け敵陣地を突破し
市中で円陣を作り頑張る)
我延進隊、諸隊に先んじて
10時30分武昌入城、
途中、死体、馬、砲など多数あり、
狼狽ぶりを知る。
城内でも敵兵未だ日本軍とは知らず
話し掛け乍ら寄って来るのもいた。
命により城外に出て露営
10・30
武漢大学南側の附属東湖中学に宿営
11・3
突然威寧方面へ出発
澄田少将(27師団)指揮下に入る
(澄田師団長は徐州戦の時我が連隊長)