核の平和利用と言う名目でスタ-トした原子力発電所ですが、
1964年10月16日中華人民共和国が原爆実験に成功し、
米ソ英仏に続く5番目の核保有国になったことから原子力を平和利用だけに留めない検討が始まりました。
正式には1968年内閣調査室に研究会がもたれました。
その前の1964年の12月には若泉敬の報告書が内閣調査室に提出されていました。
その報告書には核武装には反対だが、潜在的力として原子力発電や原子力船のような平和利用に力を注ぐべきだとかかれています。
それはあくまでもいざと言うときには核兵器への転用が可能だという主旨です。
報告書の中身です。
注:若泉敬 京都産業大学教授で国際政治学者。佐藤栄作総理の個人ブレ-ンとして活躍。
沖縄の本土返還実現は実質的に若泉の陰の力と言われている
●「中共の核実験と日本の安全の安全保障」から抜粋 若泉敬
わが国はあくまでも自ら核武装はしないという国是を貫くべきであると考えるが、
しかしもしもそれを強いられてどうしてもやらざるをえない場合には何時でもやれるのだという潜在的な能力、
つまりそれに必要な科学・技術水準および工業力基盤等の総合国力をつねに中共よりも高いレベルに引き上げておく努力を真剣になすべきである。
そしてわが国の偉大なポテンシャルを日本国民ならびに中共を含む諸外国にはっきりと認識させ、
日本は充分その能力はあるが自らの信念に従ってやらないだけなのだということを内外に明示するためにも、
原子力の平和利用 (例えば商業用原子力発電や原子力商船の建造から制御核融合研究に至るまで)に大いに力をそそぐと共に、
他方では日本が国産のロケットによって日本の人工衛星を打ち上げる計画を優先的に検討するよう提案したい。
1968年には内閣調査室は極秘報告書を提出しました。
その中には「68年に稼動した東海原発の使用済み核燃料などをふまえて、日本がプルトニウム原爆を少数製造することは可能」と書かれています。
また、1968年11月20日付の外交政策企画委員会議事録には
「軍事利用と平和利用とは紙一重というか、二つ別々のものとしてあるわけではない」とも書かれています。
これらから考えると日本の原発は先々の核兵器への転用を視野に入れていたことが分かります。
この考えつまり「原発はいつでも核兵器を作れるという安全保障上の核抑止力になる」と言う考えは
今でも受け継がれ多くの政治化の基本的考えになっています。
福島原発の事故のあと原子力規制庁が出来たのをきっかけに
原子力基本法を始め多くの関連法案に「国家の安全保障」という文言を挿入したのはその表れでしょう。
このことは後の項目の原子力を巡る法律で詳しく書きます。