1943年5月7日、
日本軍の来襲に備えて天然の洞窟「月児洞」や
畠の中に隠れていた
村人約200人は日本軍に追い立てられ
平地に集められました。
そして朝8時頃機関銃の掃射が始まり、
終了後は銃剣で刺殺しました。
●中国共産党機関紙「晋察冀日報」 1943年5月27日
日本侵略軍は野場東北部の谷間で
200人近い民衆(野場、龍王水、玉家荘、解放村)を捕らえ、
1ケ所に集めた。
うち大多数は老人、婦女、児童だった。・・・・
日本軍の機関銃が唸りを上げた。
婦女と子供が凄惨に泣き叫び、
激しく罵り、その血肉は乱れ飛び、
亡骸はそこら中倒れて積み重なった。
ある者は頭が飛び、ある者は腹を打ち砕かれた。・・・・
こうして118人の同胞が死に、54人が重傷を負った。
野場村だけで4世帯が死に絶えた。・・・・
日本軍がわれわれを殺し尽くそうと企図するなら、
われわれはあくまで日本軍を消滅しなければ自らは守れない。
彼らを消滅しなければ、
われわれが彼らに消滅されるだろう。
戦う以外に道はない・・・・
日本軍のこの作戦は「18春冀西作戦」
通称「は号作戦」と言われ、
共産党軍の撃滅、根拠施設の徹底的壊滅が目的とされた。
その中の第2期作戦の報告には
「諸隊は5月10日までに掃蕩剔決を実施した」とだけ
簡単に述べている。
(戦史叢書北支の治安戦 2)