アメリカ軍ではかなり早い時期から
日本軍の細菌戦に関して情報をつかんでいたようです。
1942年3月13日にはアメリカ海軍情報部は、
中国において生物兵器が使用された可能性に就いて
レポ-トを配布しました。
●アメリカ海軍情報部のレポ-ト
日中間の戦争が始まって以来、
日本が生物戦を行っているという情報や噂が流れている。
そうした報告について、
十分な確認がなされているわけではないが、
湖南省長沙での騒動に関する以下の情況については、
十分な確認が出来ており、注意を向ける必要がある。
そこでは、11月11日から25日の間に、
「腺ペスト」が6回発生し、
12月14日には7件目が報告されている。
この情報はきわめて信頼できるものと評価して
カナダの情報機関にも伝えられました。
終戦直前の6月にも報告書があります。
アメリカ軍の
ダグラス・マッカ-サ-将軍の個人用書類の
1945年6月23日付け
「日本軍の戦争法規違反」と言う報告書です。
ヴァージニア州のマッカ-サ-資料館で
発見されたものですが、
その資料を分析した
西里扶甬子さんのレポートを見てみます。
●西里論文 季刊戦争責任研究 第11号から
・・・・この報告書の第2章は細菌戦と題して、
捕虜尋問の内容から不十分ながら
日本軍が細菌戦を実戦に使うべく
重大な関心と期待を寄せて
準備している事実を察知していることを伺わせる。
また第4章には連合軍捕虜に対する
残虐行為という項目があって、
斬首や生体解剖と共にシンガポ-ルでの目撃談として
「多数の連合軍捕虜が赤痢とマラリアの
人体実験に1回以上使われた」と報告している。
最後に添付されている報告には
ハルビンで細菌爆弾の実験を指揮している人物として、
石井四郎の名前も上がっている。
また石井四郎は東京の
陸軍軍医学校研究室(防疫研究室)の主幹とも書いてある。
このようにアメリカ軍は、
日本軍が細菌戦や生体実験をしていた事実を知りながら、
戦後の世界戦略の観点から情報を独占しようとしました。
特に日本占領軍(GHQ)のマッカサ-を始め、
配下の情報部(G-Ⅱ)、化学戦部隊は、
ワシントン政府に隠れて
731部隊情報を取り込んでいきました。
敗戦から約2週間、
8月28日到着した連合軍の中に最初の調査団がいました。
●モーランド調査団
団長 E・L・モーランド博士
(マサチュ-セッツ工科大学理学部長)
顧問 K・T・モ-ランド博士(同大学長)
ムーレイ・サンダ-ス軍医中佐
(細菌戦の専門家、シカゴ大学教授)
注:サンダ-スは戦時中から米陸軍が
生物兵器の研究を進めた
「キャンプ・デトリック」の医学博士で、
特に731関係の調査が目的でした。
注:キャンプ・デトリック
日本やドイツの生物戦に備えて、
1943年にメリ-ゴ-ランド州に建設された
特別研究施設でアメリカ陸軍細菌戦研究部隊です。
まず旧日本軍の軍事課・新妻清一中佐を
調査するに当たってサンダ-スは
「戦争犯罪とは無関係に純科学的に調査をする」と
事実上戦犯免責とも取れる約束をしました。
その後の内藤良一に対する訊問で、
人体実験はしていないとの
内藤の言葉を信じてしまったサンダ-スは
調査不足のままマッカ-サ-に
731部隊の免責を進言してしまいました。
その後サンダ-スは内藤と友人関係になり、
日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)にも関係したようです。
そのあとは石井の片腕で、
731部隊の全容を知る増田知貞
(南京栄1644部隊長・軍医大佐)へと調査は進みます。
大物政治家亀井貫一郎が協力したことで
(1945年10月、鎌倉での亀井、サンダ-ス会談)
再度戦犯免責が確認され、
引き換えに7311部隊関係者の重い口は開き始めました。
すぐに「Px」(ペストノミ)の事はばれたようです。
しかしその時には731部隊関係者を
免責することはすでに決まっていました。
1945年11月サンダ-ス・レポ-トがまとめられました。
●調査内容
(a)生物戦に関する日本軍の意図と能力
(b)現在または近い将来における武器としての
生物兵器の能力を見積もる際に応用する。
サンダ-スレポ-トには
関係者を免責したことや
情報をアメリカが一手に握った成果、
相当な成果があったにもかかわらず、
余り詳しいことが書かれていません。
ところがサンダ-スは1980年代に入って
驚くべき事実を語り始めました。
内藤良一が731部隊の関係者だったことは
後で分かったことにせよ
その時点で731の実態をかなり把握して、
しかも知らないふりをして免責したのです。
●テレビジョン・サウス
サンダ-スインタビュ- トランスクリプション
1985年3月 フロリダの自宅にて
・・・だから、人間モルモットを使った
実験はしていないという内藤の言葉を
信じていたのは、ほんの短いあいだだった。
ただ、信じるふりを続けた方が
彼との友達関係がうまくいくと判断した。
来日してから何日もの間、
陸軍大臣だの軍医総監だのと面談して、
何の情報も得られなかった。
それが突然私の傍にいる通訳が、
それまでは帝国陸軍の中佐だということは分かっていたが、
向かうべき方向を教えてくれたんだ。
それに、人体実験のことを
私が知らないことにしておいた方が、
内藤を守れるとも思った。
内藤が一晩で書き上げてきた文書には、
陸軍参謀部の中にはアメリカ軍に
細菌戦についての情報を与えることに
強硬に反対する者もいると書いてあったし、
この文書を読んだ後には焼き捨ててほしいと書いてあった。
彼が描いた細菌戦部隊の組織図を
見たとき、彼を守らなければと思った。
われわれは薄い氷の上にいるという気がした。
われわれはどうしても彼を必要としていたからね。
彼の情報については丸ごと受け入れて、
われわれ自身の判断は後ですればいいと思った。
もっとも、彼が731部隊のメンバ-だと
知ったのは、私が帰国したずっと後だったがね。
・・・・・私の意見では、日本人たちは、
中国人であろうと、満州人であろうと、
アメリカ人やイギリス人あるいは
その他の異なった人種のグル-プと、
なんら異なった感情は持っていない。
後で分かったことだが、
彼らはある一種類のバクテリアを注射して、
黒人、白人、黄色人などの違った人種によって
生理学上の反応の違いを調べたいと考えていた。
内藤の話として、彼らは人体実験の結果、
およそ2000人の中国人と満洲人が
殺されたということを認めた。
ロシア人も実験に使われたということも聞いている。
彼らはアメリカ人ついても
研究しようとして、ある程度成功した。
しかしわれわれはこうした情報源については
できるかぎり保護するようつとめた。
・・・・それに炭疽菌の人体実験は、
相当数の中国人を使って行われたという
証拠が後になって出てきたが、
奉天ではアメリカ人、それにおそらくは
イギリス人の捕虜に対しても、
炭疽菌の実験が行われたと思う。
石井のような人物を戦犯として
起訴しなかったのは間違いだったと思う。
ただひとつ弁解すれば、
こうした条件でも持ち出さなければ、
われわれが手に入れたような
デ-タを手に入れることは出来なかったと思う。
サンダ-スの帰国後
同じキャンプ・デトリックの
アーヴィ-・トンプソン獣医中佐が調査を引き継ぎました。
1946年1月11日に調査を開始しています。
731部隊関係者の重要な人物を
訊問したのにもかかわらず、
成果のあがらないまま3月には
トンプソンレポ-トがまとめられました。
レポ-トの中でトンプソンは
「おのおの別個とされる情報源から
得られた情報はみごとに首尾一貫しており、
情報提供者は尋問に於いて、
明らかにしてよい情報に量と質を
指示されていたように思える」と書いています。
つまり影で誰かが操っていたことを見抜いていました。
その操っていた人物は内藤良一です。
アメリカにいくら情報を与えても
東京裁判まではどうしても
秘密にしておかなけらばならないことがあったからです。
それは「○」と「保作」です。
「○」は㋟(マルタ・人体実験された被害者)と
㋭(細菌戦)のことです。
「保作」は細菌戦の作戦内容のことです。
陸軍省軍務局軍事課の新妻清一中佐が残した
ファイルにこのことが書かれています。
作者は不明ですが内藤良一かもしれません。
●北野中将へ連絡事項 (原文カナ)
1. ○及び「保作」は絶対に出さず
2. 関防給は石井隊長以下尚在満しあり
注:関東軍防疫給水部つまり
731部隊の隊長以下はまだ満州にいるということ
3. 増田大佐は万難を排して単独帰還し「マ」司令部へ出頭せり
注:マはマッカーサ-つまりGHQのこと
4. 関防給は総務部長兼第四部長大田、
第一部長菊池、第二部長碇、
第三部長兼資材部長増田大佐となり
その他は転出又は解隊しあり
5. 第一部研究、第二部防疫実施並びに
指導、第三部給水実施並びに
指導及び資材修理、第四部製造、
資材部資材保管補給を担任しあり
6. 7. 8. 棟-中央倉庫、田中班-P研究、
八木沢班-自衛農場に使用しあり
注:7、8棟は監獄だった
7. 「保研」に関しては石井隊長、
増田大佐以外は総合的に知れるものなし
以下略
注:保研は細菌戦研究のこと
8. 北野中将在職中「保研」は
前任者の実験を若干追試せる外、
積極的に研究せず中止の状態なり
注:北野は細菌戦にあまり
関係していなかったと印象付ける
9. 「保研」は上司の指示にあらず、
防御研究の必要上一部の者が研究せるものなり
注:細菌戦は組織的ではなく
一部の者が防御のためやったことにする
10. 北野中将は在職中
もっぱら流行性出血熱の研究に没頭せり
第731部隊の部隊長を務めていた
北野政次(軍医中将)が戦後日本に戻ったのが
1943年1月です。
東京裁判で最悪の事態も予想していた
北野は「有末機関」で
有末精三(元中将・対連合軍陸軍連絡委員長)と会談し
「アメリカ軍とはもう話がついていて、
戦犯となることはない」と聞かされます。
そして有末機関から出た北野は
その足でGHQへ行きました。
GHQでは「生物戦のことは口外しないように」と
言われています。
そして翌日の1月11日にトンプソンは
北野に訊問を開始します。
このことは非常に興味のあることです。
アメリカ政府が派遣した細菌戦の専門家
サンダ-スやトンプソンは
第731部隊のことを調査しようとしたのに対して、
占領軍のGHQは細菌戦のことを隠そうとしていたのです。
恐らくトル-マン大統領からの
直接命令を受けていたマッカッサ-の
GHQは政治の場で公開することを避けて、
戦後の軍事的世界戦略を考えて
情報を秘密裏に独占しようとしたものと思われます。
G-2(GHQ参謀2部、情報・諜報部門)や
CIC(GHQ対敵諜報部隊)は、
かなり情報をつかんでいたようです。
結局3月にまとめられた
トンプソンレポ-トの結論は
「日本は生物戦の攻撃面の研究・開発で
大きな進歩を達成しているが、
結局実用的な武器として
生物兵器を使用するまでにいたらなかった。・・・・・・
全ての証拠書類が破棄されたという説明には疑問がある」と
いう事になってしまいました。
かたやソ連は満州で捕虜にした
731部隊員の証言から証拠をかなりつかんでいたため、
1947年1月、アメリカ(GHQの情報部G-2)に対し
731部隊の石井四郎、太田澄、菊池斉、
3名の引渡しと尋問を要請して来ました。
ソ連は一度は日本で石井四郎の
聞き取り調査をしましたが、
全情報を独占しようとする
アメリカに阻まれて成果をあげることが出来ませんでした。
ですからハバロフスク裁判での記録だけが
ソ連側の得た内容です。
実はソ連が石井から聞き取り調査をした時に、
事前にアメリカと石井が打ち合わせをし、
しかもアメリカの立会いの下での
聞き取りでしたから何も聞き出せなかったのです。
石井四郎の長女「はるみ」の証言があります。
●石井はるみ 証言 1987年4月 西里扶甬子インタビュ-
・・・・そして、翌年フェルさんが来て、
ソ連の訊問があった時、
トンプソンも立ち会いました。
一度帰国して戻って来ていたのだと思います。
ソ連の訊問の前にはああ言え、
こう言えって打ち合わせが大変でした。
アメリカ側の人間と親しげにしてくれるなと、
何べんも言われました。
あの日のことは鮮烈に覚えています。
ソ連の人は3人で靴も脱がずに
そのままダダ-ッと2階へ上がってしまって、
一人ステノ(口述筆記者)の女性がいて、
それが夏だったから、
ブラジャ-とパンティの上に
すけすけのボルグのワンピ-スを着てたの。
ボインボインで、それでもう香水の匂いが強烈なの。
3人とも無愛想で。
私はマキさんと隣の部屋にいましたが、
質問は研究のことばかりだったと思います。
アメリカもそうでしたけど・・・・
ソ連の指摘で731部隊の人体実験や
細菌戦が発覚してから、
アメリカは3人目の調査官を送り込んできました。
化学戦部隊のノバ-ト・フェル博士です。
そしてさらに731関係者との駆け引きが活発になりました。
つまり731部隊の全資料と戦犯免責の駆け引きです。
すると石井四郎はさっそくアメリカに自らを売り込みました。
●Interrogation of Isii May 8and9 1947
(その他も参考にしてまとめました)
・・・・すべての記録が破棄されてしまったので、
概略程度しか思い出せない。
ロシアと中国が細菌を使ったので、
日本は防御的生物戦研究をやらざるえを得なくなった。・・・・
寧波事件については中国の新聞で読んだ。
私は満州にいたのでその県については何も知らない。・・・・
増田、金子、内藤の3人は、
多くの情報を提供できることでしょう。
私は細菌戦の専門家として
アメリカ軍に雇われたいと思っています。
ソ連との戦争の準備として、
私が20年かけた研究と経験の成果を
差し上げることができるでしょう。
細菌戦の防御に冠する戦術的問題について、
私は色々考えてきました。
寒冷な地域やさまざまな地域で
採用されるべき最適の病原菌について、
何冊もの本を書くことが出来ます。・・・・
炭疽菌がベストだと思う。
なぜなら、大量生産が可能で、
耐久性があって、毒性を持続し、
致死率が80から90パ-セントです。
ベストの伝染病といえばペストだと思う。
昆虫を媒介とする伝染病でいえば、脳炎だと思います。・・・・
このような状況の中でマッカ-サ-が
国防総省に731部隊の免責を正式に訴えました。
その結果アメリカ政府は免責という決断を下したのです。
●N.R.Smith, April 18.1947、 RG331、MFB、WNA
アメリカにとって、
日本の生物戦デ-タは
国家安全保障上、高い重要性を持つものであり、
「戦争犯罪」として訴追することの
重要性はそれに及ぶものではない。
日本人生物戦専門家を戦犯裁判に引き出した場合、
その情報が他国に対して明らかになってしまうため、
国家安全保障上望ましくない。
日本人情報源から得た生物戦に関する情報は、
情報チャンネルにとどめ、
「戦争犯罪」の証拠として用いるべきではない。
ノバ-ト・フェルに続いて
キャンプ・デトリックから
病理学者のエドウィン・ヒルと
ジョセフ・ヴィクタ-の両博士が来日し
調査のために具体的な
人体実験の試料を多数アメリカに持ち帰りました。
それらの膨大な資料を、
CIAは1947年から研究し、
その後アメリカ国立公文書館に
文書は送られ1950年代に入ると
マイクロフィルムに収める作業が開始されました。
5%位の作業が終ったところで
政府から中止命令が入り、
1958に日本に返還されました。
日本に返還された膨大な資料を
日本政府はまだ公開していません。
ノバ-ト・フェルが収集した資料の内に
人体実験された人間の標本がありました。
731部隊がどれだけ細菌実験をしたかの
目安になるので記載してみます。
●ヒルレポ-トより
症状名 標本数
炭疽 36
ポツリヌス 2
ブルセラ 3
一酸化炭素中毒 1
コレラ 135
赤痢 21
鼻疽 22
髄膜炎 5
マスタ-ドガス 16
ペスト(実験? 180
ペスト(流行で感染) 66
毒物 2
サルモネラ 14
孫呉熱 101
天然痘 4
連鎖状球菌 3
自殺 30
破傷風 30
森林ダニ脳炎 2
つが虫 2
結核 82
腸チフス 63
発疹チフ 26
ワクチン 2
この標本は731部隊で集めた標本で、
生体実験から町中で流行したものまで含まれます。
数を見てみると731部隊が
興味を持って研究していた内容がわかります。