731を始めとした細菌戦部隊で活躍した
研究者たちが、どの様な業績を残し、
又戦後をどの様に生きたのかを書く事は、
過去の事を暴き立てるようで良くない事かも知れません。
しかし一切の事が秘密にされ、
免責や処罰も受けずに、
戦後知らん顔をして第一線で活躍したのです。
その結果ミドリ十字や国立予防衛生研究所が
エイズの血液製剤事件を起こした事を思うと、
やはり分かる限り書いてみようと思います。
まずエイズで問題を起こしたミドリ十字の流れを書きます。
「日本血液銀行~ミドリ十字」
●内藤良一
陸軍軍医学校防疫研究室が
空襲を避けるため避難していた新潟出張所も
731部隊同様終戦と同時に崩壊しましたが、
所長の内藤良一の奔走で
東芝生物理化学研究所新潟支所として
活動を再開しました。
内藤良一が支所長、金子順一が技師長
◎金子順一
風船爆弾にペスト菌を載せる研究の中心で、
後に東大伝染病研究所
この支所は戦後の衛生環境の悪化の中業績を伸ばし、
1950年東芝から分離し、
1979年には電気化学工業グル-プに入りました。
1982年にはデンカ生研と社名が変わり、
エイズ検査試薬やワクチン(インフルエンザワクチン)の
メ-カ-になっています。
内藤良一はアメリカで学んだ乾燥血液の技術を生かして、
1943年救世軍の校舎を借りて乾燥血漿の製造を始めました。
その後この仕事は東京都血漿研究所を経て、
1949年日本製薬㈱に受け継がれました。
日本製薬で乾燥血漿を担当したのは
元731部隊の国行昌頼です。
その後内藤は大阪で開業医をしていましたが、
1950年11月宮本光一と二木秀夫の協力で
大阪城東区に「日本ブラッド・バンク(日本血液銀行)」を作りました。
●宮本光一 日本特殊工業社長。
陶器爆弾や石井式濾水器を製造していた
●仁木秀夫 731部隊で主として
結核菌の研究者として生体実験を行った
直接関係はありませんが
昭和37年に日本中を騒がせた
サリドマイド薬害事件がありました。
その時の厚生省に薬務局長だった
松下廉蔵氏はサリドマイド裁判の終了後
ミドり十字に天下りし社長になりました。
日本ブラッド・バンク(日本血液銀行)は
1951年には名古屋にプラントを設置しました。
所長は元731部隊の野口圭一です。
続いて東京にプラントを作りましたが、
その所長は731部隊長を務めた北野政次です。
1957年京都プラントが出来て
元731部隊の大田黒猪一郎が所長となりました。
1964年8月28日、社名がミドリ十字に変わり、
新薬を次々と開発していきました。
731部隊の戦後にミドリ十字が
深く関係していることはお分かりになったと思います。
厚生省エイズ研究班の安倍英は
まだ東大の医師の頃内藤良一との協力関係が出来ました。
また厚生省薬務局長の松下廉蔵が
ミドリ十字に天下りしたのもこの頃です。
そしてミドリ十字は血液製剤によるエイズや
肝炎を始めとした薬害を次々と起こします。
そこでミドリ十字を含め元731部隊員の戦後を見てみます。
まず部隊長の石井四郎です。
●石井四郎
(当時)731部隊第1代、第3代部隊長
(戦後)アメリカとの裏取引で免責され、
ソ連の追及もアメリカに守って貰い、
新宿区若松町で旅館経営
1959死亡 69歳 葬儀委員長は北野政次
「ミドリ十字関係者」
●北野政次
(当時)
731部隊第2代部
(戦後)
鮮戦争でのアメリカ軍の需要に答えるために、
1951年に日本ブラッドバンク(ミドリ十字)を共同設立した。
日本学術会議南極特別委員
文部省百日咳研究会
京都府立医科大学学長
●内藤良一
(当時)
1931年京都帝国大学医学部卒業
陸軍軍医学校防疫研究室、
波8604部隊幹部
石井に最も近い人物とされる
(戦後)
1951年日本血液銀行を共同設立
内藤医学研究振興財団を設立
その財団の理事にエイズ事件の安部英がいる
●二木秀雄
(当時)
731部隊企画課と第1部第11課の結核班に所属
(戦後)
日本ブラッドバンク共同設立
●野口圭一
(当時)
731部隊第4部第3課でペスト・脾脱疽等の細菌製造
(戦後)ミドリ十字の前身
日本ブラッドバンク名古屋プラント所長
●大田黒猪一郎
(当時)
731部隊第4部野口班長、ペスト・脾脱疽の研究
岡9420(南方軍)
(戦後)
日本ブラッドバンク京都プラント所長
ミドリ十字常務取締役
●園口忠男
(当時)
731部隊
(戦後)
ミドリ十字で乳酸菌飲料「ポリラクトン」を開発
陸上自衛隊衛生学校副校長を兼ねる
●宮本光一
(当時)
731部隊ではないが、石井が開発した
器具機械を製造した日本特殊工業の社長。
石井と癒着して利益をあげ、
石井の裏金作りに協力したといわれる。
(戦後)
日本ブラッドバンクを共同設立
●小山栄二
(当時)
東京帝国大学農学部卒、
731部隊員ではなかったが、
陸軍糧秣本廠の研究者として
黒穂菌を風船爆弾に乗せる
「糧秣本廠1号」の研究をしていた
次は戦争中細菌戦部隊及び組織に属していて、
戦後、国立予防衛生研究所をはじめとした
国の機関に関係した人です。
「国立予防衛生研究所」
現在国立伝染病研究所~国立感染症研究所
●朝比奈正二郎
(当時)
731部隊第1部第9課(水棲昆虫)長。
発疹チフスワクチン製造
(戦後)
国立予防衛生研究所 名誉所長
●小林六造
(当時)
京大教授、防疫研究室嘱託
(戦後)
国立予防衛生研究所 初代所長
●小島三郎
(当時)
東大伝染病研究所教授、
栄1644部隊所属 サルモネラ菌の研究
(戦後)
国立予防衛生研究所 第2代所長
文部省百日咳研究班員
●小宮義孝
(当時)
華中衛生研究所(栄1644部隊関連)
(戦後)
国立予防衛生研究所第4代所長
●柳沢謙
(当時)
陸軍軍医学校防疫研究室で嘱託
結核研究 凍結乾燥BCG
(戦後)
国立予防衛生研究所 第5代所長
●福見秀雄
(当時)
陸軍軍医学校防疫研究室 インフルエンザ
(戦後)
国立予防衛生研究所 第6代所長
文部省百日咳研究班員
(注)1951年、国立東京第一病院に
入院中の乳児たちに、両親に告知や許可を
受けずに大腸菌を飲ませる実験を行なった
●村田良介
(当時)
1644部隊
(戦後)
国立予防衛生研究所 第7代所長
●宍戸亮
(当時)
防疫研究所嘱託
(戦後)
国立予防衛生研究所第8代所長
●北岡正見
(当時)
栄1644部隊
(戦後)
国立予防衛生研究所
ウイルス・リケッチア部長の後、4代目副所長
●堀口鉄夫
(当時)
731部隊
(戦後)
国立予防衛生研究所勤務
●安東洪次
(当時)
731部隊大連支部長、
ワクチン製造部門を統括
(戦後)
東大伝染病研究所教授
実験動物中央研究所所長
文部省百日咳研究班員
武田薬品顧問
●江島真平
(当時)
731部隊第1部第4課長 赤痢研究
(戦後)
国立予防衛生研究所勤務
●八木沢行正
(当時)
731部隊第2部班長で植物菌の研究
(戦後)
国立予防衛生研究所勤務
日本抗生物質学術協議会理事
●中黒秀外之
(当時)
731大連出張所でペスト菌の研究
(戦後)
陸上自衛隊衛生学校校長
●若松有次郎
(当時)
100部隊部隊長
(戦後)
国立予防衛生研究所所員
日本医薬
●浅沼靖
(当時)
731にて流行性出血熱の原因をダニと特定
(戦後)
戦後文部省資源科学研究所
●植村肇
(当時)
731部隊
(戦後)
文部省
●緒方富雄
(当時)
731部隊
(戦後)
東京大学医学部教授 血液学
国立東京第一病院
●根津尚光
(当時)
731部隊
(戦後)
都立衛生研究所
●黒川正身
(当時)
栄1644部隊勤務
(戦後)
国立予防衛生研究所で一般検定部長
●山下喜明
(当時)
栄1644部隊1科勤務、軍医大尉 金華支部長
(戦後)
厚生省新潟検疫所長
●近喰秀大
(当時)
栄16444部隊1科勤務
(戦後)
防衛大学校教官で衛生課長
●木村直正
(当時)
栄1644部隊1科勤務
(戦後)
防衛庁勤務
●児玉鴻
(当時)
731部隊細菌戦研究班
(戦後)
国立予防衛生研究所初代所長
慶応大学教授
●貞政昭二郎
(当時)
731部隊病理研究班
(戦後)
原爆障害調査委員
●篠原岩助
(当時)
731部隊人体解剖班
(戦後)
国立都城病院付属江東看護学院
「 大学、研究機関、企業関係」」
●田中英雄
(当時)
731部隊第2部実施研究の昆虫班班長 ペストノミの研究
約70人以上を人体実験した。
ネズミの習性に関する研究やネズミを使ったノミ繁殖研究
(戦後)
大阪市立医科大学長 私立兵庫医科大学で教鞭
●笠原四郎
(当時)
北里研究所から731部隊第1部第8課長
リケッチア・ウイルスの研究
(戦後)
戦後都立豊島病院
北里研究所病理部長
●石川太刀雄丸
(当時)
731部隊第1部石川班で病理研究
金沢大学医学部病理学教授
アメリカのヒル&ヴィクタ-調査報告書によれば
「・・・・岡本耕造博士によれば、
金沢大学にあった病理データは
1943年に石川博士によってハルビンから
持ち帰られたものである。
それはおよそ500人の標本からなっていた」と書かれています。
1943年石川は金沢大学医学部教授となる。
特に流行性出血熱(孫呉熱)の研究で有名。
北野政次の「防疫秘話」の記述では
「・・・・流行性出血熱の研究では・・・・
昭和11年11月初旬、トゲダニを朝比奈技師が集め、
金沢博士が11月6日実験し、笠原博士が引継ぎ、
11月14日石川博士の病理報告で実験成功を知り、
その後笠原博士の努力で病原体がウイルスである事が決定・・・・
病理研究は所博士が引継いだ」とあります。
また同調査に対して「ペストは自然の流行の際に
集められたものばかりでなく、
人工的にペストに感染させ解剖した人から
採った標本の数として、総数は180」と答えています。
論文「炎症(殊にペスト)に関する研究」では
満州国農安地区ペスト流行に際して、
ペスト屍57体解剖を行った。
之は体数に於いて世界記録であると自慢しています。
(戦後)
1949年 日本細胞化学会を創設
1954年 オランダの国際細胞学会に日本代表
1962年 第6期日本学術会議第7部会員に選ばれる
1967年 金大医学部付属神経情報研究施設長
1968年 金大がん研究所長
●吉村寿人
(当時)
731部隊第1部第3課長 生理、マルタ管理、凍傷実験
731部隊で人間を使った残酷な
凍傷実験を行なったとして有名です。
(戦後)
京都府立医科大学の学長
日本学術会議南極特別委員
凍傷実験の成果をもとに
極地人類生理学の権威となりましたが、
自分の実験を戦後も自慢していた事で
問題になっていました。
1981年に日本生理学会で行なった講演が
問題になりその後学長を辞任しました。
その講演を報じた新聞記事から
◎タイトル「生体実験堂々と講演」
・・・・日本生理学会で、
凍傷研究の生体実験結果をもとに
同部隊(731部隊)での研究成果を自分の功績として
特別講演していたことが明らかになった。
帰国後、関西の公立医大学長などをつとめ、
環境適応医学の「大御所的」存在で、
この人は戦時下のことだからと弁明しているが、
その無神経さに同学会内部から厳しい批判が出ており、
特別講演の全文を学会誌に掲載した
学会の責任を問う声も上がっている。
A(注:吉村)は・・・・講演の中で
局所耐寒性(寒冷順応)の比較民族学的研究」という
731部隊での研究成果を披露した。
Aは「戦後、JJP(同学会発行の海外版学会誌)で発表したところ、
国際的に大変な反響を呼んだ」と誇らしげに述懐したという。
1950年8月から52年2月に3回に分けて
日本生理学会誌の英文版に
部下の飯田敏行との連盟論文
「厳冬に対する皮膚反応についての研究」を発表した。
そこには日本人、中国人、モンゴル人、
オロチョン族の8~48歳の男性を
多い時には500人以上使った実験結果が報告されている。
実験は熱電対を指先につけて、指を氷水に漬けさせ、
皮膚温の変化を測定し、年齢・人種別に抵抗性を調べた。
研究論文によると「浸漬直後より皮膚温は急速に低下し、
それとともに局所に激痛を覚え、以後感覚麻痺し
4分後に指頭に激烈なる衝撃を覚えた。
このとき、皮膚は白く変色し、
かつ温度は急に上昇して局所凍結の起こるのを示す」また、
「3日目の新生児でも寒冷に対する
皮膚血管の反応が観察できた」など、
残虐な生体実験ぶりがリアルに記載されている。
●岡本耕造
(当時)
京都大学出身、
731部隊第1部第6課長 病理研究
解剖の名手50~60人を1人で解剖したと言われる。
勳一等をもらう
(戦後)
兵庫医大教授、
京都大学医学部長,近畿大学医学部長となる
●田部井和
(当時)
京都大学出身、
731部隊第1部第1課長でチフスの研究に従事
(戦後)
京都大学細菌学教授、
兵庫県立医科大学教授
●関根隆(旧姓安川)
(当時)
731部隊で食品衛生学の研究ペスト研究班
(戦後)
水産大学教授、学長
●草味正夫
(当時)
731部隊資材部第1課長 薬品合成を担当
(戦後)
昭和薬科大学教授
●湊正雄
(当時)
731部隊第1部第2課長 コレラ研究を担当
(戦後)
京都大学教授
●所安夫
(当時)
7311部隊で流行性出血熱の研究班
(戦後)
東京大学教授、
帝京大学教授
●春日仲善
(当時)
731部隊大連支部(通称319部隊)勤務
(戦後)
北里研究所
文部省百日咳研究班員
●園口忠男
(当時)
731部隊第2部(?)で細菌戦研究班
(戦後)
陸上自衛隊衛生学校副校長
●増田美保
(当時)
731部隊第2部航空班で細菌戦実施
(戦後)
防衛大学校陸上防衛学教室教授
●篠田統
(当時)
731部隊技師、北京甲1855部隊で
昆虫学者としてハエやノミの研究
(戦後)
大阪学芸大学(大阪教育大学)教授
三重県立医専教授
●金子順一
(当時)
731部隊病理研究班
(戦後)
東芝生物理化学新潟支所勤務
財団法人予防接種リサ-センタ-勤務
●小川透
(当時)
栄1644部隊第3課、
腸チフス菌やパラチフス菌で
食物や飲み水を汚染する研究に従事
(戦後)
名古屋市立大学医学部教授
1952年に乳児院の孤児を対象に
人体実験を行ったとして社会問題になる
●山中太木
(当時)
栄1644部隊第1課
(戦後)
大阪医科大学長
第47回日本細菌学会総会長
●金沢謙一
(当時)
731で孫呉熱のダニを使った実験に従事、
大連衛生研究所研究員
(戦後)武田薬品研究部長
●藤野恒三郎
(当時)
シンガポ-ル岡9420部隊
(戦後)
大阪大学生物学研究所教授
●山田秀一
(当時)
満鉄衛生技術廠細菌第一部長
(戦後)
熊本大学教授
●土屋毅
(当時)
同仁会南京診療班長
(戦後)
順天堂大学名誉教授
●早川清
(当時)
731部隊第4部
9420部隊、ノモンハン事件に参加
(戦後)
早川予防衛生研究所経営
●増田知貞
(当時)
京都帝国大学医学部卒業、731で石井の片腕、
栄1644部隊部2代目隊長
(戦後)
千葉で開業
●太田澄
(当時)
731部隊第2部長細菌戦を指揮
栄1644部隊部3代目隊長
(戦後)
山口県で開業
●高橋正彦
(当時)
731部隊でペストの研究
(戦後)
千葉で開業
●鈴木俊一
(当時)
731部隊山西省分遣隊主計部
(戦後)
東京都知事
●国行昌頼
(当時)
731部隊病理研究班
(戦後)
日本製薬株式会社で乾燥血漿の製造
●青木義勇
(当時)
栄1644部隊(?)
(戦後)
長崎大学
●岩田茂
(当時)
満洲医大
(戦後)
阪大微生物研究所
●加藤勝也
(当時)
7311部隊
(戦後)
名古屋公衆医学研究所
●川島清
(当時)
731部隊第4部細菌製造・軍医少将
(戦後)
八街少年院
●貴宝院秋雄
(当時)
731部隊第1部で天然痘研究
(戦後)
京都微生物研究所
●清野謙次
(当時)
防疫研究所嘱託
(戦後)
京大病理学教室教授
●木村廉
(当時)
防疫研究所嘱託
(戦後)
京大細菌学教室教授
●工藤忠雄
(当時)
7631部隊
(戦後)
大阪日赤
●倉内喜八郎
(当時)
731部隊細菌戦研究班
(戦後)
永寿病院院長
●小酒井望
(当時)
防疫研究所
(戦後)
順天堂大学浦安病院院長
●潮風末雄
(当時)
731部隊人体解剖班
(戦後)
三重大学医学部病理学
●鈴木重夫
(当時)
731部隊第3部、ペスト研究
(戦後)
東京衛生材料研究所
●瀬尾末雄
(当時)
731部隊ペスト研究班
(戦後)
三重大学医学部病理学
●妹尾左和丸
(当時)
731部隊人体解剖班
(戦後)
岡山大学医学部病理学
●長友浪男
(当時)
731部隊
(戦後)
北海道庁衛生部長
●浜田良雄
(当時)
731部隊
(戦後)
京都大学農学部教授
●浜田豊博
(当時)
731部隊
(戦後)
香川県衛生研究所
●平山辰夫
(当時)
731部隊
(戦後)
京都母子保健院
●三井但夫
(当時)
栄1644部隊
(戦後)
慶応大学助教授
●宮川正
(当時)
731部隊
(戦後)
埼玉医科大学
●山内忠重
(当時)
栄1644部隊勤務
(戦後)
興和㈱を創設 取締役
●浜田稔
(当時)
栄1644部隊4科勤務
(戦後)
京大農学部教授
●江口豊潔
(当時)
731部隊病理研究班
(戦後)
江口病院長
●大塚憲二郎
(当時)
731病理研究班
(戦後)
国立東京第一病院
●加藤勝也
(当時)
731部隊発疹チフス・ワクチン製造班
(戦後)
名古屋公衆医学研究所
●田崎忠勝
(当時)
栄1644部隊
(戦後)
信州大学
●巽産治
(当時)
731部隊人体解剖班
(戦後)
巽病院長
●谷口典二
(当時)
同仁会華中支部
(戦後)
阪大微生物研究所長
●中野信雄
(当時)
731部隊梅毒菌研究班
(戦後)
加茂病院長
●西俊英
(当時)
軍医中佐、731部隊教育部長、孫呉支部長兼任
(戦後)
西病院長
●根津尚光
(当時)
731部隊コレラ研究班
(戦後)
都立衛生研究所
●野田金次郎
(当時)
栄1644部隊
(戦後)信州大学
●野呂文彦
(当時)
731部隊マルタ管理班
(戦後)
野呂病院長
●稗田健太郎
(当時)
満州医科大学
(戦後)
久留米大学医学部長
●広木彦吉
(当時)
満州医科大学微生物
(戦後)
日本歯科大学細菌学教授
●藤野恒三郎
(当時)
南方防疫給水部
(戦後)
阪大微生物研究所
●田中政治
(当時)
731部隊マルタ管理班
(戦後)
三井三池製作所
●目黒康雄
(当時)
731マラリア菌研究班
(戦後)
目黒研究所長
●目黒正彦
(当時)
731部隊大連支部製造担当
(戦後)
目黒研究所
次は細菌戦部隊の周辺で
研究者を送り込んだり,
その他の協力関係にあった人です。
医師や研究者の社会では、
今でもそうですが若い研究者は教授等
上司の命令で仕事先が決まります。
ですから細菌部隊に弟子を送り込んだ人も
同罪と考えてよいでしょう。
その殆どが軍医学学校防疫研究室の嘱託研究者でした。
「周辺の協力者」
●宮川米次
(当時)
東大伝染病研究所助教授
(戦後)
東芝生物物理化学研究所所長
●緒方富雄
(当時)
東大伝染病研究所助教授
(戦後)
東京大学医学部教授
●細谷省吾
(当時)
東大伝染病研究所教授
(戦後)
同研究所に残る
研究業績で朝日賞を受ける
●戸田正三
(当時)
京大教授
(戦後)
南極特別委員
金沢大学学長
●木村廉
(当時)
京大教授、多くの若い研究者を731部隊に送った
(戦後)
日本医学会副会長
名古屋市立医科大学学長
注:常石敬一氏のインタビュ-に
「誰を送るかは石井の指名によるのではなく、
自分の判断であった」と述べています。
●正路倫之助
(当時)
京大教授
(戦後)
第1期学術会議会員
●田宮猛雄
(当時)
東京帝国大学で若い研究者を731に送り込んだ
(戦後)
東大医学部部長