敗戦直後から国民世論や政治家の中に
戦争責任の調査や責任追及の声が上がっていました。
政治家の中では幣原喜重郎貴族院議員や
芦田均衆議院議員が中心となっていました。
敗戦の年、1945年9月4日、
芦田均は長文の質問主旨書を
第88回帝国議会に出しています。
●その頃の内閣一覧
鈴木貫太郎内閣 1945年4月7日~8月17日
東久邇宮稔彦王内閣 8月17日~10月9日
外務大臣 重光葵 8月17日~9月17日
吉田茂 9月17日~10月9日
幣原喜重郎内閣 10月9日~1946年5月22日
外務大臣 吉田茂
吉田茂内閣 1946年5月22日~1947年5月24日
片山哲内閣 5月24日~1948年3月10日
芦田均内閣 1948年3月10日~10月15日
芦田均が質問主旨書を提出した時の
内閣は東久邇宮稔彦王内閣でした。
官報号外の昭和20年9月6日から
質問主旨書を要約します。
「芦田均質問主旨書」
第88回帝国議会衆議院速記録第2号から(原文カナ)
1945年9月4日
大東亜戦争を不利なる終結に導きたる
原因並びにその責任の所在を明白にするため、
政府のとるべき措置に関する質問主旨書
大東亜戦争は肇国以来未曾有の惨事にして・・・・
事のここに至れる原因は
もとより複雑多岐にして、
敗戦の責任もまた2~3の
戦争指導者のみに帰するべきに
非ざるは言うまでもなし
しかりと言えども
この戦争が国史の例なき
敗戦に終わりたる原因を検討し、
その責任の帰するところを
明白にするは民族再生の門出缺に欠
くべからざる反省と刺激を与える指針にして、
同時にまた輔弼責任の他大儀をただし
国体を明徴ならしむるところなりと信ず
よって政府に対し特に次の諸点に答弁を求める
第1 政府は大東亜戦争が何故に帝国にとり
不利に終結したると考えるや
1、政府はわが国が世界より
孤立するにいたりし事情は
どこに端を発し如何に進行したりと思うや
2、大東亜戦争開始に際し
帝国国防兵力に充分の準備ありしと思うか
3、戦争指導の機構に遺憾の点ありしを認めざるや
4、銃後の施策にに幾多の過誤ありたると認めざるや
第2 大東亜戦争を不利の終結に導きたる
責任は何処にありと思考するや
第3 大東亜戦争を不利の終結に導きたる
原因並びにその責任の所在を明らかにするため
政府は如何なる措置をとろうとするや
・・・・今日よりこれが(歴史)研究の資料を保全し、
かつ特殊な機関を設けて
調査の任に当たらしめ、
速やかに一応の報告を公表して
国民の期待に副うは政府当然の職責なりと信ず
芦田のこの質問に対して
政府の答弁は「傾聴に値するものあり」という程度でしたが、
その後10月には原因調査の方向に政府は向い始めます。
一方幣原喜重郎は8月下旬から
「終戦善後策」をまとめていましたが、
東久邇内閣の外務大臣が吉田茂になると
それを吉田に手渡しました。
●終戦善後策 幣原喜重郎
第1 連合諸国の我国に対する信頼の念を深からしむること。
第2 敗戦より生ずる事態の重大性を
国民一般の脳中に銘記すること。
第3 我国は国際情勢に機宣を逸せず、
我に有利なる新局面の展開を図ること。
凡そ列国間の関係に百年の友なく、又百年の敵なし、
現に連合諸国間にも幾多の重要案件に関して
利害を異にする所あり、
終に抗争対立するの徴なしとせず、
また戦時に抗争対立せる諸国間にも
追て時局の進展に伴ひ相互の協力指示を
要する問題に直面することあるべく、
我施策宜しきを得るに於ては、
今日の敵を転じて明日の友となすこと必ずしも難からず。
以下省略
第4 政府は我敗戦の原因を調査し、その結果を公表すること。
(1) 国務と統帥権との分野は事実上屢々混淆せること。
(2) 自然科学研究の奨励方法不備なること。
(3) 空襲は所要資材及運輸施設を
墓石以て軍需生産を停頓せしめたること。
(4) 殊に最近直接の敗因として、
米軍の使用せる原子爆弾の破壊力強烈なること。
10月15日「内閣調査室」は
「第二次世界大戦史編纂に関する件」の案文を
「終戦連絡各省委員会」に提出しました。
●案文
日本民族の反省を促し、
平和国家建設の基礎資料に供する目的をもって、
東亜における第二次世界戦争の開始、
経過並びに終結に至る全過程につき、
軍事、政治、産業、経済、思想、文化等
あらゆる部門にわたり、
事実に即して客観的なる記述をなし、
もって総合的なる第二次世界戦史を編纂することとし、
差当たり、左の要領に基き、これが資料の収集、整理を為す
そして10月30日に閣議決定がなされました。
●敗戦の原因及実相調査の件
昭和20年10月30日 閣議決定(原文カナ)
大東亜戦争敗戦の原因及び実相を
明らかにすることは、
これに関し犯したる大なる過誤を
将来において繰り返さざらしむるが為に
必要なりと考えらるるが故に、
内閣に右戦争の原因及実相調査に従事すべき部局を配置し、
政治、軍事、経済、思想、文化等
あらゆる部門にわたり徹底的調査に着手せむとす
そして1945年11月24日に
「大東亜戦争調査会」が内閣に作られました。
●大東亜戦争調査会 勅令第647号
「勅令」(原文カナ)
朕 大東亜戦争調査会官制を裁可し
ここにこれを公布せしむ
裕仁 昭和20年11月22日 内閣総理大臣男爵幣原喜重郎
大東亜戦争調査会官制
第一条 大東亜戦争調査会は内閣総理大臣の監督に属し
大東亜戦争の実情に関する事項を調査審議す
第二条 調査会は総裁1人、副総裁1人及
委員25人以内をもってこれを組織す
前項定員の外必要ある場合においては
臨時委員を置くことを得
第三条 総裁は之を勅命す
副総裁は内閣総理大臣の奏請により
内閣においてこれを命ず
委員及臨時委員は内閣総理大臣の奏請により
関係各庁高等官及学識経験ある者の中より
内閣においてこれを命ず
学識経験ある者の中より命ぜられたる
委員の任期は3年とす
ただし特別の事由ある場合においては任期中これを解任
「目的」
第一条には目的として
「大東亜戦争調査会は内閣総理大臣の監督に属し
大東亜戦争の実状に関する事項を調査審議す」と
簡単に書かれています。
実際には
◎戦争を起こし拡大させた責任
◎戦争を傍観し敗戦の拍車をかけた責任
◎個人の責任追及よりも社会構造像的な研究に重点を置く
◎真相究明と同時に日本再建の指針とする
「組織」
総裁 幣原喜重郎
副総裁 芦田均
第一部会(政治外交)
斉藤隆夫
大河内輝耕
片山哲
以下略
第二部会(軍事)
飯村穣
戸塚道太郎
矢野志加三
以下略
第三部会(財政経済)
山室宗文
渡辺銕蔵
小汀利得
以下略
第四部会(思想文化)
馬場恒吾
和辻哲郎
中村孝也
以下略
第五部会(科学技術)
八木秀次
柴田雄次
以下略
「調査予定」
1年もたたないうちに調査会は廃止になるのですが、
その直前1946年8月時点で、
今後何を調査するのか内定していた
項目をピックアップします。
◎日本人の世界観及び国民性の概観
◎日本人の文化水準
◎第一次世界大戦後の国際情勢と日本の国防方策
◎人口と国内資源との関係
◎世界恐慌下における日本の政治経済対策
◎田中内閣の大陸政策と浜口、若槻内閣の対内、対外政策
◎中国における国民革命と国内統一運動
◎日本軍国教育の実態
◎満州事変の戦闘経過
◎満州事変を中心とする国内問題と国際情勢
◎海軍軍縮をめぐる諸問題
◎広田内閣の成立から
第一次近衛内閣の成立までの間の国内情勢の推移
◎軍の政治干与とその影響
◎陸海軍人を中心とする諸事件の発生とその経緯
◎教育の軍国主義化
◎民主主義的、自由主義的思想と
全体主義的、国家主義的思想の対流
◎支那事変前後の中国の政治経済情勢
◎支那事変の直接原因と日本政府の対策
◎日独伊三国接近の経緯と三国同盟
◎支那事変後の戦争指導特に
最高戦争指導機関と戦争指導方策
◎臨時軍事費特別会計の設置と
これによる予算の膨張
◎軍国主義的思想の強化と反軍思想の弾圧
◎戦時宗教対策
◎官僚の言論統制
◎官僚の文化統制
◎東条内閣の成立から対米英開戦までの経緯
以下省略 全部で68項目になります。
「調査会の廃止」
終戦連絡中央事務局はこの「調査会」に関して
GHQの了解を得ているということだったので、
連絡は全て事務局を通して行われました。
調査会には米国や中華民国は賛同を示しましたが、
対日理事会第8回(1946年6月27日)、
第9回(7月10日)、第11回(8月7日)に
この調査会に対して異議が出されました。
●ソ連の意見
◎侵略戦争の原因の調査や
戦争扇動者暴露や処罰は、
極東軍事裁判に属している
◎調査会は日本のあるグル-プが
合法的に戦争の経験を総括する試みである
◎調査会の中に元軍人や
戦争遂行に協力した科学者が含まれている。
◎連合国最高司令官は
日本政府に解散を命じるよう、勧告する
●英国の意見
◎調査会の目的が、次の戦争を避けるためなのか、
次の戦争で負けない為なのかが不明瞭である
◎直ちに解散せよとは勧告しないが、
この活動はかなり危険である
対日理事会内部に対立があるため、
マッカ-サ-は調査会の廃止を決め、
日本政府と打ち合わせ、
9月の末に廃止することを内定しました。
そしてこの調査会は目立った成果をあげないまま、
片山内閣の時1946年9月30日に廃止になりました。
戦争調査会廃止以降、
引き継ぐ形で芦田均、片山哲等が中心になり
「財団法人平和建設研究所」の設立が計画されました。
しかしGHQは承認しませんでした。
戦争調査会は実現しませんでしたが、
記録では「敗戦の原因及実相」より
「開戦原因の調査」に重点を置いていたことが分かります。
避けられた戦争を始めたことを
批判する調査が途中で頓挫したことは、
その後の社会にも影響を残していると思われます。