普通はどんな犯罪者でも裁判にかけられます。
細菌研究をする731部隊では
生体実験に使用する人間が大量に必要でした。
秘密裏に生体実験を行う事は
国際条約はもとより日本国内でも許されない事ですし、
人道的にあってはいけないことです。
捕虜を裁判にかけていたら
証拠が残りますし時間もかかります。
一切秘密で後でバレない方法が考えられました。
それが特別移送です。
憲兵が道を歩いている人をいきなり捕まえて、
簡単に取調べをして書類に特別移送と書けば、
その瞬間から、個人の名前はなくなり、番号で扱われ、
一切秘密裡に生体実験の犠牲者としての道をたどったのです。
その様な犠牲者が少なくとも3000人以上はいたのです。
特別移送は関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、
警務部長梶栄次郎、731部隊長石井四郎などが計画し、
1938年1月26日関東憲兵隊司令部警務部が出した
58号文書「特移(特別移送)扱ニ関スル通牒」から
スタートしたと言われています。
殆ど資料が残っていませんが、
ハバロフスク裁判の資料から
平野部隊の陣中日誌にある、
関係する命令書を書きます。
(読み易く少し手直ししてあります)
●平野部隊「陣中日誌」抄録 1939年7月17-9月19日
特殊輸送(注:特別移送の事)護衛に関する命令
関憲作命第224号
関東憲兵隊命令 8月8日16時関東憲兵隊司令部
1. 関憲作命第222号に基く第2回特殊輸送人員は
約90名とし、8月9日山海関駅到着、
山海関よりの輸送は客車1輌とし、
8月10日11時15分山海関駅発(山海関・奉天間旅客列車に連結)、
同13時零時(?)13分孫呉駅到着とす。
2. 錦州憲兵隊長は前項山海関より
孫呉間輸送の護衛を担任すべし。
但し被輸送人員中60名を除く他は
ハルピン駅に於いて石井部隊長に交付するものとす。
之がため予め石井部隊長に交付人員を区分し
交付に当り遺憾なきを期すべし。
前項護衛の為承徳憲兵隊より将校1、
平野部隊より下士官兵25、
関東憲兵隊教育隊より衛生下士官1を配属す。
通訳1は錦州憲兵隊より差出すものとす。
3. 承徳憲兵隊長は承徳憲兵分隊柴尾大尉を、
平野部隊長は下士官兵2(曹長1を含む)を、
関東憲兵隊教育隊長は衛生下士官1を、
8月9日中に山海関に派遣し、
錦州憲兵隊長の指揮を受けしむべし。
4. ハルピン憲兵隊長は石井部隊長と密に連繋し、
ハルピン駅並びに爾後の輸送に当り
防諜並取締に遺憾なきを期すべし。
5. 平野部隊並関東憲兵隊教育隊よりの
派遣者の旅費は憲兵隊司令部より支給す。
6. 其他細部事項は関憲作命222号に拠るべし。
関東憲兵隊司令官城倉少将
1943年(昭和18年)憲兵隊司令部は
再度「特移扱」に関する通牒を出しています。
731部隊の人体実験の材料が不足したため
再度集める必要が出たのかもしれません。
●関憲高第120号 (原文カナ、読みやすく直しました)
特移扱に関する件通牒
昭和18年3月12日 関東憲兵隊司令部警務部長
主題の件に関しては
昭和13年1月26日関憲警第58号によるも
其の取扱は概ね別紙を標準とせられたく依命通牒す
発送先
関各隊長(含独立分隊長 除86、教務隊長)
-別紙-「特移扱」により輸送される者の区別表
別紙
区別 | 犯状 | 具備条件 |
前歴 | 性状 | 見込み | その他 |
諜者 (謀略員) | 事件送致するも当然死刑 又は無期と予想せらるる者 | | | 逆利用価値 なき者 | |
諜者謀略員として出入満 数回以上にして 現に活動中の者 | | 親「ソ」 又は抗日 | 逆利用価値 なき者 | |
事件送致するも不起訴乃至 短期刑にて出獄を 予想せらるる者 | 住所不定無頼の徒 にして身寄りなきもの 阿片中毒 | 親「ソ」 又は抗日 性格不逞 | 改悛の情 認められず 且再犯 虞大なるもの | |
過去に於いて 活動の経歴を有する者 | 匪賊又は之に準ずる 悪辣行為ありたる者 | | | |
他の工作に関係あり或いは 重要なる機密事項に携わる 者等にして其の生存が 軍乃至国家に 著しく不利なる者 | | | | |
特移扱相当人物の一味 | | | | 罪状軽しと 言えども 釈放すること 不可とするも者 |
思想犯人 (民族共産 主義運動 事犯) | 事件送致するも当然 死刑又は無期と 予想せらるる者 | | | | |
他の工作に関係あり或いは 重要なる機密事項 携りたる者等にして 其の生存が軍乃至国家に 著しく不利なる者 | | | | |
備考 | 各部隊長は右標準に依り個々の人物の処分に当りては満州国の国情に鑑み国政上或いは社会上 に与える影響、公徳上の感作等十分に考慮し検討の上確信を以って司令官に特移扱を申請 するものとす |
[ 証言 ]
特別移送に関する証言ですが、
最初に1997年10月1日に、
東京地裁で原告(中国人被害者)側証人なった
三尾豊の陳述から要約します。
三尾豊は大連憲兵隊から天津に派遣され、
王耀軒、王学年をスパイ容疑で逮捕し
大連憲兵隊に連行しました。
スパイ容疑の関連で逮捕者は
10数名になり大連黒石事件と呼ばれました。
容疑者は厳しい拷問の末
「特別移送」として731部隊に送られました。
当時12歳だった王耀軒の息子王亦兵は、
行方不明の父親を探し続けていましたが、
1990年憲兵隊の特移扱の文書に父親の名前を発見しました。
戦後平和活動をしていた三尾豊はこの事を知り、
自分が父親を731部隊に送った憲兵であると名乗り出て、
その後死ぬまで謝罪を続け、
裁判の翌年1998年7月に亡くなりました。
●三尾豊陳述書
憲兵の本来の任務は、
軍の秩序維持のための軍事警察一般でありますが、
戦時にあっては、戦争地域における
防諜・民心の動向の査察が主な任務とされていました。
(中略)
すなわち関東軍憲兵隊司令官は、
満州国の警察統制委員長となり、
カイライ国家満洲の警察・鉄道警護
並びに満洲軍憲兵隊を統制指揮していたわけであります。
当時の満洲には、
日本の県に相当する18省の自治体があり、
そのほか租借地関東州に本部があったわけですから、
全部で18の憲兵隊が満洲における3000万の中国人を
厳重な暴力的支配の下においていたわけであります。
・・・・憲兵隊が15年間に行った活動は、
ソ連から間断なく派遣されて進入してくるスパイ対策、
「西南国境」であった熱河省に侵入する
中国共産党に対する対策、
及び関東軍が極秘裏に推進した
細菌戦部隊731部隊への積極的協力と
化学兵器部隊516部隊・526部隊に関する
防諜活動などでありました。
・・・・当時細菌兵器について、
対ソ作戦上不可欠の兵器と考えられていましたので、
その実験手段としての生きた人間の確保が
是非とも必要であったと言われています。
その為に関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、
軍医石井四郎、関東軍憲兵司令官田中静壱などの
協議によって、731部隊における生きた人間の
実験材料を充分に確保する目的で生み出された手段が
「特移扱」でありました。・・・・
当時の満洲における憲兵隊は、
客観的に見る限り法的に処刑することの
不可能ないわゆる被疑者を確実に、
何らかの法的手続きもなしで、
処分することのできる手段を
手に入れたわけでありました。
憲兵は、逮捕した被疑者をいつでも恣意に
「特移扱」として、憲兵隊司令官に上申し、
その許可を得ることによって、
731部隊へ生体実験用人間として
移送することができたのであります。
・・・・憲兵隊は、何時でも、何処でも
人を逮捕し、731部隊に送って、
これを抹消することができたのであります。
憲兵はやっかいな通常の尋問調書や
意見書を必要とする事件の送致手続きよりも、
より簡単な意見書1本で申請することができ、
しかもそうすることが、自分にとって
より多くの功績と評価される「特移扱」に、
より一層積極的に取り組んでいました。
731部隊の石井四郎は、部隊所属の軍医はもとより、
日本の大学から連れ込んだ医師にしても、
「実験材料」として監禁されている「マルタ」は、
すべて死刑囚であると誤魔化していたのであります。
医師たちは「死刑囚ならどうせ死ぬんだ、
医学のために貢献できるのなら本望であろう」などと
勝手に決め込んで、残酷極まる生体実験を
何の躊躇もなく、やっていたのであります。
しかし事実はそうではなかったのです。
そこに強制的に移送されたほとんどすべての人々は、
「死刑囚」ではありません。
死刑囚を生体実験に使えるなら
「特移扱」を考え出したりする必要はなかったのです。
・・・・私が思うに「特移扱」とは、非人道的で
世界の何処にも存在し得ない「狂気の沙汰」でありました。
カイライ国家満洲でなければ
絶対にできないことであったと言えます。
・・・・そしてこれに協力し、多
くの無辜の中国人民を実験材料とするために、
生体実験室に送り込んだ憲兵の、
具体的な「特移扱」手続または制度の利用行為もまた、
石井四郎の生体実験と同じく
人道上も国際法上も許されることの
無い重大な犯罪行為であったのです。
・・・・生体実験が日本軍の組織的な行為として行われ、
3000人を超える人々が、実験材料として
処理されたといわれています。
かくも多くの人々を実験材料として
実験室に送り込む役割を引き受けていた者こそ
日本軍の憲兵であったのであります。
このような意味において、
王耀軒外3名の人々を731部隊に引き渡した
私の行為は殺人行為であり、
私自身はその行為によって
殺人者になったのだと言わなければなりません。
次には特別移送に関する証言を
中国での戦犯裁判での供述からいくつか見てみます。
●太田秀清自筆供述書 1954年7月7日
1939年5月上旬、
私は日本関東軍承徳憲兵分隊警務係上等兵であった。
興隆に派遣した憲兵が
中国共産党員1名(男、45歳前後、氏名不詳)を逮捕し、
承徳憲兵分隊内に拘禁した。
拷問を加えたのち、承徳憲兵分隊柴尾大尉の指揮で、
捕虜移送列車を利用して、ハルピンの石井部隊に護送した。
拘禁期間および護送の途中、私は監視として警戒にあたり、
ハルピン駅で石井部隊から派遣されてきた人に引き渡した。
●津田玄郎 自筆供述書 1954年10月19日
1939年10月、私は山海関連合外事班で特務伍長をしていた。
輸送されるべき荷物を調べたさい、
手がかりを発見し、奉天憲兵隊に電報を打ち、
荷主であった中国抗日愛国者馬文焔を逮捕した。
またこれをきっかけに、
満州国奉天、ハルピンにおいて
「暁工作」の暗号名で、10名の中国抗日愛国者を逮捕し、
石井部隊に送致して殺害に至らしめた
●今関喜太郎 (関東憲兵隊司令部警務部勤務)
自筆供述書 1954年10月19日
1939年10月から40年1月まで、
私は命令によって前後3回にわたり、
東安憲兵隊などに対し、5名の抗日工作員を石井部隊に送って
細菌実験にあてよと命令する指示を
暗号電報に訳し、通信所から発した。
1940年12月から41年6月まで、
私は命令にしたがって、チャムス、東安、
孫呉憲兵隊隊長の提出した抗日工作員計15名を
石井部隊移送に関する報告を審査した。
審査が終わると「電報にて上申された事柄は、
執行を許可する」との命令を起草し、
司令官の裁可を得たうえで、
前述の各部隊に伝達して移送を執行させ、
15名の抗日工作員を細菌実験の材料にした。
●笹嶋松夫 自筆供述書 1954年8月11日
1939年10月から40年11月まで、
北安憲兵分隊長田附常隣中尉および
武下虎一大尉は部下の宮崎信伍長に命じ、
北鶴線列車上で身分証の検査をおこなったさい、
中国情報工作員3名を逮捕し、
分隊で訊問したのち、
石井部隊に移送して殺害にいたらしめた。
当時私は北安憲兵隊本部功績係軍曹として、
石井部隊に移送せよとの命令を伝達した。
●原口一八 自筆供述書 1954年8月26日
1940年10月から43年3月頃まで、
私は興安北省地方保安局(分室)において
事務官局長代理および理事官の職務に就いていた。
保安局に勤務した2年4ケ月の間に、
命令を受けて保安局防諜機関
および各国境警察隊に指示し、
通ソ容疑者などの名義で、
中国人70余名、ソ連人6名、モンゴル人15名、
合わせて90余名を前後して逮捕した。
訊問ののち、中央保安局の指示にしたがって、
4通りの方法でそれぞれ処理した。
1.殺害
2.ハルピンの石井部隊送り
3.阜新炭鉱に送って労役に就かせる
4.特務として逆用
内訳は、殺害されたものが、
中国人、ソ連人、モンゴル人21人。
ハルピンの石井部隊に送られ細菌実験に供されたものが、
中国人、モンゴル人40人。
阜新炭鉱で労役に就かされたソ連人が5人....
(以下省略)
注:保安局
1937年12月に設立された満州国の秘密のスパイ組織。
国境警備、防諜、対外諜報などを任務とし、
各地に地下組織網をもっていた。
1943年3月から44年10月まで満州国牡丹江市警察局で、
特務科長をしていた期間に「浮浪者」という名目で、
中国人の善良な住民797人を逮捕し、
労務興国会の労働訓練所に拘留した。
そのうち牡丹江の731部隊支部に送って
細菌実験に供し死亡したものが25名いた。
注:労務興国会
1941年10月、満洲労工協会を改組して
成立した労働力調達・統制組織。
強制連行の手段ともなった。
●松本英雄 自筆供述書 1954年12月23日
1941年7月、私がハルピン警察庁司法科捜査係にいたさい、
司法科が2名、外事科が6名のソ連人を逮捕した。
のちに、これら8名のソ連人はいずれも731部隊に送られた。
聞くところによると、
細菌実験のために送りこまれたということだった。
次にハバロフスクの軍事裁判訊問を見てみます。
●橘武夫 佳木斯憲兵隊長 大佐
(尋問は長いので質問の部分を省略し答えのみ書きます。)
(原文カナ、読みやすくしました)
(答) 何れかの犯罪の嫌疑で憲兵隊が拘引し
検挙した者の一定の部類を、
我々は実験材料として第731部隊に送致しました。
我々はこれらの者を予備的な部分的取調べの後
裁判に付さず事件送致をせずに
憲兵隊司令部より我々が受領した指令によって
第731部隊に送っていました。
これは特殊の措置でありましたので、
かかる取り扱いは「特移扱」と呼ばれていました。
かかるいわゆる「特移扱」にされた者は、
次の如き部類の者でありました。
◎即ち他国家を利する諜報行為の罪を負わされた者、
◎外国諜報機関の関係者の嫌疑を
かけられた者並びにいわゆる匪賊、
◎即ち中国のパルチザン、それから、抗日分子の部類、
◎改悛の見込みなし刑事犯、即ち常習犯がこれであります。
・・・・私の在職中少なくとも6人が第731部隊に送られ、
これらの者はそこから戻らず、
実験に使用された結果そこで死亡しました。
(答) 私に見せられたこの文書は1943年に作成されました。
当時私は関東憲兵隊司令部刑事部に
勤務していましたところ、
かかる文書の作成を命ずる指令が、
関東軍司令部から入りました。
(答) この文書はタイプで打たれて、
満洲各都市の憲兵隊本部に送達されました。
「特移扱」に該当する人物は
憲兵隊本部の留置所に留置され、
しかる後彼らの尋問調書の抜粋及び
「特移扱」許可申請書を憲兵隊司令部に送りました。
そこではこの書類を検討し、問題を決定して、
申請してきた当該憲兵隊本部に
これらの人物を「特移扱」の名目で
第731部隊に送致すべきことに関する
命令が発せられました。
かかる書類が地方の本部から憲兵隊司令部に入りますと、
庶務部を経てこれ等は刑事部に引き渡され、
それから私が長でありました防諜班に渡されました。
私の班の勤務員辻本は、これらの書類検討し決定を下し、
かかる後これらの決定を私に提出しました。
私はこれを承認してさらに刑事部長に送りました。
刑事部長は関東憲兵隊司令官の
採決を得た後憲兵隊司令官の名を持って、
書類を提出した憲兵隊本部に命令を発しました。
(答)関東憲兵隊は関東軍司令官の指令によってこれを行いました。
通常、憲兵隊は事犯者の事件を
裁判所或いは軍事裁判に送致していましたが、
これらの場合には、特別命令が法律に代わり、
人間は裁判なしで送致されていました。
(答) 憲兵隊司令部から「特移扱」正式採決があった後、
申請書一部が戻され、
囚人は憲兵隊本部に留置されていました。
その後第731部隊から実験材料、
即ち「特移扱」に運命ずけられた
人間の送致要求があって後、
囚人は調書一部と共にハルビンに送られ、
ハルビン駅で憲兵隊員に囚人が引き渡されていました。
ここまで、特移扱いについての証言を書きました。
731部隊が大量の生体実験が出来たのは、
特移扱いの制度があったからです。
三尾さんの証言にもありますように、
世界にも例の無いほどの残酷な制度です。
私(筆者)は研究会で直接三尾さんから話を伺いました。
右隣で立つことも不自由に衰弱した三尾さんは
その後間もなくして亡くなりました。
次の項目では特移扱いを行った
憲兵隊の送致書類を見て見ます。