資料が不足しているため断定は出来ませんが、
1932年1月の第一次上海事変の時には
既に海軍の慰安所があったようです。
海軍慰安所は当初数ヶ所でしたが、
1936年には専用慰安所が7軒になっています。
● 北朝鮮の最近の調査で、
1928年に北朝鮮の清津市に
「軍人慰安所」があった事が分かりました。
もしかしたらこの慰安所が一番古いかもしれません。
☆清津市チョンアム区域芳津洞と
清津市羅南区域ブンゴク洞の2ケ所
もとに上海海軍慰安婦の話に戻ります
● 昭和11年中に於ける在留邦人の
特殊婦女の状況及其の取締
在上海領事館警察署沿革誌 原文カナ
七軒は海軍下士官兵を専門として
絶対に地方客に接せしめず、
(注:軍隊用語で地方とは民間の事)
且つ酌婦の健康診断も
陸戦隊員及び当館警察官立会いの上、
毎週2回専門医をして施行しあるほか、
慰安所に対しては海軍側とも協調取締を厳にし、
且つ新規開業を許さざることとせり・・・・
陸軍の慰安所は同年の3月から
設置が始まりましたが、
設置をした上海派遣軍岡村寧次参謀副長の
回想録には「海軍を見習って作った」とあります。
● 1932年3月14日
岡部直三郎上海派遣軍高級参謀の日記より
この頃、兵が女捜しに方々をうろつき、
いかがわしき話を聞くこと多し、
これは軍が平時状態になるほど
避け難きことであるので、
むしろ積極的に施設をなすを可と認め
兵の性問題解決策に関し種々配慮し、
その実現に着手する。
主として永見中佐これを引き受ける。
その後1933年には中国東北地方の
平泉駐留の混成第14旅団に
「防疫・衛生施設」という名称で
慰安所が出来ました。
旅団司令部の衛生業務旬報によれば、
朝鮮人芸妓酌婦35名、
日本人芸妓酌婦3名となっています。
軍の慰安所が大量に出来たのは、
1937年の南京攻略戦からです。
上海から南京に行く途中で
強姦事件が多発したため、
南京占領前に中支那方面軍は
軍慰安所設置の指示を出しています。
● 飯沼守上海派遣軍参謀長 日記から
1937年12月11日
慰安施設の件、
方面軍より書類来たり、実施を取り計らう
12月19日
迅速に女郎屋設ける件につき、
長(勇)中佐に依頼す
● 上村利道上海派遣軍参謀副長 日記から
1937年12月28日
軍隊の非違いよいよ多きがごとし、
参謀2課をして各隊将校会報を招集し、
参謀長より厳戒する如く手続きをなさしむ・・・・
ついて第2課案を南京慰安所の開設審議す
その後中国各地に慰安所は多数作られていきます。
戦争が東南アジアに拡大してくると
慰安所も同時に東南アジアに作られ始めました。
● 南洋方面占領地における慰安所開設に関する件
1942年1月10日(原文カナ)
台湾総督府蜂谷照雄外事部長から東郷茂徳外務大臣宛
南洋方面占領地において軍側の要求により
慰安所開設の為渡航せんとする者
(従業者を含む)の取り扱いに関し、
なにぶんのご指示を仰ぎたい
● 南洋方面占領地に対し慰安婦渡航方の件
大臣から外事部長へ(上記の返事) 1942年1月14日
この種の渡航者に対しては
(旅券を発行することは好ましくないので)
軍の証明書により(軍用船にて)渡航せしめられたし
注:()内は、外務省としては
慰安婦にあまり係りたくない為、
軍で勝手にやってくれと書いたのですが、
軍を刺激するため後で消した部分です。
● 南方派遣渡航者に関する件
台湾軍司令官から陸軍大臣宛 1942年3月12日
陸密電第63号に関し「ボルネオ」行き
慰安土人50名、出来る限りすることを、
南方総軍より要求があるため、
憲兵が調査選定した左記経営者3名の
渡航許可を申請する。
注:慰安土人とは台湾人慰安婦の事です
沖縄や日本国内にも軍専用慰安所は作られました。