当時南京や重慶に対する長距離爆撃に成功した海軍は、
航空兵力の拡充を国や国民にアピ-ルしていました。
将来のアメリカを見据えた海軍は中国で爆撃の訓練もしていました。
従来日本軍では海軍の出番が少なく予算の多くを陸軍が占めていました。
しかし長距離爆撃のアピ-ルに成功した海軍は
急速に予算の拡充に成功しました。
●臨時軍事費の変化
年度 | 臨時軍事費 (陸・海合計) | 海軍臨時軍事費 | 航空兵力関係 |
第72回帝国議会(1937年) | 202,267万円 | 39,995万円 | 19,874万円 |
第73回帝国議会(1938年) | 488,659万円 | 116,530万円 | 42,004万円 |
第74回帝国議会(1939年) | 465,000万円 | 93,955万円 | 43,945万円 |
第75回帝国議会(1940年) | 446,000万円 | 84,000万円 | 36,763万円 |
注:1938年(昭和13年)に急速に増加しています。
将来の対米戦争を視野に入れた日本軍は
南方進出の重要拠点として海南島を押さえることにしました。
位置的にマレ-半島やインドネシアに向かう重要拠点で、
援蒋ルート(注:中国国民党のへの支援ル-ト)としても、
シンガポ-ルから英米の物資を運ぶ拠点でもありました。
さらに、香港(英国領)、フィリピン(アメリカ領)、
中国南部が長距離爆撃機や零式戦闘機の渡洋範囲でもありました。
海南島は面積が台湾くらいの島です。
1940年頃の人口は約250万人です。
位置的に重要な地点で、
日本としても日本としても
南方進出の重要拠点と見られていたため、
さらに対米戦争を考えて軍事予算の増額に成功した
海軍としては積極的に海南島攻略を考えていたようです。
1939年1月13日の御前会議で海南島政略が決定され、
2月10日に陸海軍両軍で占領を開始しました。
●大陸命第265号 1939年1月19日付 原文カナ
大本営は南支那に対する航空作戦及び
封鎖作戦の基地設定のため海南島要部の攻略を企図す
注:南方侵略に対する航空や封鎖のための
基地設定と言う限定した目的だった
海南島占領は陸軍が飯田支隊
(台湾混成旅団を中心とした部隊、飯田祥次郎少将)と
海軍は第5艦隊(司令長官近藤信竹中将)の合同で行なわれました。
この作戦は陸軍では「甲作戦」、海軍では「Y作戦」と呼びました。
その後は海軍主導で作戦は進められていきました。
この占領に対して、
当時海南島を勢力範囲としていた
フランスは厳重に抗議しました。
2月13日に有田八郎外務大臣は
「領土的野心はない」と回答しましたが、
3月30日になると海南島と
新南洋群島の領土宣言を一方的に発表し、
各国に日本の南方侵略の警戒心を与える事になりました。
占領時には中国の正規軍は既に撤退し、
海南島には保安団や共産軍のゲリラ部隊が
わずか1万人位残っている程度でした。
それに対して日本軍は7,892人でした。
(1941年12月現在)
海南島では少数ながら抗日ゲリラが活発に活動していたため、
海軍主導で「Y作戦」というゲリラ掃討作戦を行ないました。
Y作戦は時期によって、Y1からY9まであります。
●海軍の地上作戦
Y1作戦 占領開始
Y2作戦 1940年3月~4月
Y3作戦 1941年2月~3月
Y4作戦 1941年8月
Y5作戦 1941年11月~42年1月
Y6作戦 1942年6月
Y7作戦 1942年12月~43年6月
Y8作戦 1943年12月~44年12月
Y9作戦 1945年
●嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官の日記
1940年6月に視察 Y2作戦の頃 原文カナ
海南島は海軍の思うとおりに指導されあり
比較的短時間に着々治安上がり
中部山岳方面の外は一通り平定す
殊に2月より5月にわたりしY2作戦の効果大にして
討伐道路も相当通し天然資源の状況もあきらかとなれり
更にこの種の討伐を行い敵将
王毅を伐取らば明朗となるべし
鉱物の調査は進みしが
農業にて本邦必需の熱帯資源の
試作研究を一掃積極的に行なうの要切なり
海南島占領の本来の目的は先に述べたように
各地に進出する基地作りでしたが、
それと同時に豊富な鉱物資源と
農産物の獲得も大きな目的の一つでした。
その為にも一刻も早い治安の安定が必要だったのですが、
農産物の無理な収奪、鉱山その他の強制的労働、
中国の三光作戦にも似た掃討作戦・・・・と、
完全に住民を敵にするような強引な政策をとったため、
かえってゲリラの勢力を完全には掃蕩できませんでした。
●海南警備府戦時日誌 1944年7月 原文カナ
各管区に於ける共産匪は
其の勢力の扶殖伸展に執拗なる策動を続けあり・・・・
どの様な作戦をしたのか、Y5作戦の資料を見てみます。
●Y5作戦開始の命令 原文カナ
海南部隊はY4作戦成果を拡充し
占拠地及び未占拠地の残敵兵力を
速やかに捕捉掃滅すると共に
人心の収攪、敵性物資の獲得等の総合作戦を実施、
普く我の武威を浸透残敵再建の余地無からしめ
以って対南方作戦基地たる本島の治安を急速に確立せむとす
●Y5作戦の成果
敵に与えたる損害 遺棄死体 1,540
捕虜 262
投降者 91
焼却家屋 10,379
押収籾 41,000石
注:1万戸以上の家を焼き払い、
4万石もの籾を奪っています。
まさに三光作戦です。
●Y5作戦が終了した翌月の戦時日誌
2月1日から2月28日分
遺棄死体 143
射刺殺 293
射殺 31
刺殺 162
人員処分 18
土民刺殺 91
捕虜 173
焼却家屋 1,197
注:Y5作戦が終わり、次のY6作戦が始まる前の数字です。
平常時の1ケ月でも1000戸以上の家を焼き払い、
600人以上の人を殺している事が分かります。
遺棄死体だけが戦闘で死んだ数で、
他は捕まえてから殺していますから、
捕虜或いは民間人ということになります。
●Y5までの作戦を反省して、
Y6作戦では「あまり家屋を焼かないように」となりました。
・・・・処理を考慮し敵性家屋といえども
その焼却破壊は極力これを避け・・・・
作戦一段落せば一般民衆に対する宣伝宣撫工作を活発にし・・・・
それでもあまり変化はなくY7作戦に入ります
●Y7作戦の総合戦果
遺棄死体 2,635
射刺殺 6,748
捕虜 924
帰順 2,677
焼却兵舎 4499
●海南島占領から1942年末(Y7作戦途中)までの戦果一覧表
遺棄死体(射刺殺を含む) 28,863人
奪った武器(小銃、猟銃を含む) 6,302
注:占領時の計算ではゲリラの数は約1万人でした。
それが3万人近くも殺されています。
その割りに奪った武器の数が少ないのは、
一般住民を殺害した証拠でしょう。
「海南島と民間企業」
海南島は重要拠点であるため、
掃討作戦と並行して、
飛行場、港湾、道路などを整備し、
軍事基地化を進めるため
企業と協力して鉱山や電源等の開発を進めました。
● 海南島の日本企業
会社名 | 仕事 |
石原産業 | 田独鉄鉱山 |
日本窒素 | 石碌鉄鉱山 |
三菱鉱業 | 那大錫鉱山、羊過度嶺水晶鉱山 |
浅野セメント | 抱披嶺石灰山 |
西松組 | 日本窒素関係の工事 |
鉱山資源は豊富で、
日本が占領した1939年~45年に
日本窒素が開発していた石碌鉄鉱山が有名で、
品位60~65%の赤鉄鉱の埋蔵量が
2億トンと推定されていました。
これらの多くの事業では大量の労働者を必要としました。
「強制連行と強制労働」
日本が香港を占領した後、
人口が増えすぎて人々の困窮を極めていました。
日本軍は人口疎散政策ととりましたが、
その一環として青年たちを集めて
海南島に労働者として送り込みました。
さらに中国本土からも労働者が強制連行されてきました。
始まりは
1941年9月 上海から 約3,000人
1942年2月 香港からの第一陣 483人
それ以降香港から大量の労働者が海南島に連行されたのです。
●他の地区からの労働者
海南島で強制労働を強いられたのは、
他には、 地元先住民族、台湾人、朝鮮人、
イギリスやオ-ストラリア軍の捕虜などがいます
香港から船に押し込まれて
4日間の航海で海南島に着いた時には
多数の人が死んで海に捨てられ、
残りの半数は病人であったという資料もあります。
1943年7月までに香港経由で連行された人数は、
合計20,565人(内、看護婦等特殊工員 3,002人)です。
島での労働は幽閉状態で鉄鉱採掘、
道路建設、空港建設などの労働を強制され、
終戦後香港に帰れたのは
1/3以下だったといわれますがよく分かりません。
「朝鮮からの受刑者連行」
1939年から朝鮮の刑務所に服役中の
受刑者を南洋諸島の基地建設に
強制労働させることを決定しています。
これを受けて朝鮮各地10ケ所以上の刑務所から
受刑者が海南島に連行されました。
「南方派遣報国隊」という名称です。
海南島への第1次派遣が出発したのは
1943年3月30日で、第7次派遣で終了したようです。
受刑者は隊員として日の丸の腕章を付け、
「諸君は一人一人が日本精神を堅持すること、
即ち一切を大君(天皇)に捧げまつる心を持って欲しい・・・」と
送り出されました。
連行された受刑者は2,000人から3,000人と言われ、
半数以上が死亡したものと思われます。
働かされた所は、三亜地区と石碌地区の2ケ所でした。
朝鮮人の報国隊は海南島以外にも連れて行かれています。
また海南島には「台湾報国隊」も連れてこられたようですが、
資料が不足しています。
「証言や資料」
●河野司氏 敗戦当時、日本窒素の総務次長
石碌鉱山関係者の犠牲者だけで数万人くらいあった
●崔能さん 香港から海南島に連行された
1942年3月、日本軍に狩り出されて海南島に連れて行かれた。
私の仕事は楽な方で、運よく帰れたけど、大勢の人たちが死んだ。
重労働だったので殺されたようなものだよ。
戦争が終わって香港に戻ってみると、
父は工場を没収され、飢えて栄養失調で死んでいた。
母も飢えて戦後間もなく死んでしまったよ。
兄も弟も同じ運命で死んだ。
私は孤児になってしまった。
残されたのは父の持っていた軍票だけだったが、
日本は50年もたつのに返してくれない。
私は今でも日本を恨んでいるよ。
●藤間忠顕「台湾及海南島視察記」より
・・・・隊員たち(朝鮮人)は
朝の起床点検食事が終わると同時に朝礼をし、
皇国皇民の誓詞を斉誦し部隊の訓示を受け
・・・・最近鮮内(朝鮮内)においても
多数の病死者を出して居るのであるから、
特に気候風土の異なった
現地において多少の増加を見るのは当然であろう。
●宋龍雲さん 第1次で連行され1944年に帰国
朝鮮人を殺すのを私たちは見たが、見せられたんだ!
地面を大きく掘った穴の廻りに殺す人間を座らせて頭を下げさせる。
日本人が軍刀で頸を斬ると、
喉のところが切れないでつながっていて、
頸が落ちるのでその衝撃で身体ごと穴に落ちていった。
犬死よりもひどかった。
遺体は木と木の間に積み上げ揮発油をかけて燃やした。
●孫恵公さん 現地の黎族
日本軍は1,000人以上の朝鮮の政治犯を
収容所で殺害し南丁の丘に埋めた
●周亜細さん 現地の黎族
日本の兵隊が男達を木にぶら下げて殴って殺した。
殺された人たちがぶら下がっていた姿を見た。
死んだ人たちは埋められた。
敗戦のとき、日本軍は秘密の工事と虐殺を隠すため、
1,000人以上の労働者を殺害し埋めました。
そこは今でも「南丁千人坑」といわれています。
香港や朝鮮からの労働者に限らず、
海南島での犠牲者、人種、氏名は
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