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正式な従軍手帖は昭和14年2月11日に
支給されています。
その時点での所属は
「中支派遣軍山田部隊気付
堀川部隊工藤隊 砲兵軍曹」です。
従軍の日記は当初、
個人の生命保険会社の手帳に書き
途中から従軍手帖に書かれています。
日記が2つに分かれている為
戦後本人が一つにまとめて整理しました。
その整理されたものを日記として転記します。
転記されたものの最初に書かれたメモです。
● 戦地手帳 転記
汗に汚れ 雨に濡れて痛み
判読困難の為め何とか転記す
日支事変
従軍し大陸に於て幾度か死線を越申
生涯に又と無き体験を得し丸三ケ年なりし
善か悪か不識 尊き思ひでなり
如何様にして残りしものか
戦災にも焼けず当時の手帖を発見す。
汗、雨、水、を経たるものにて判読困難なり
前後の連絡もなく、内容も取るに足らず
唯当時の一端を記入せるものそのままに
転記して思い出となさんのみ
ただし我それを読むとき
思い出はパノラマの如く展開し、
砲弾は唸り
最後の叫びも聞申なり
ああ品川駅頭、父より賜はりし別離の杯
その美味なりしこと、未だ忘れず
昭和24年5月31日 転記終る
永井仁左右
まず個人調達の手帳に書かれた日記です
「昭和12年」
9・13
街道部隊工藤隊へ入隊
東部72部隊
本隊は野戦重砲兵第8連隊
近衛独立野戦銃砲兵第15連隊第2中隊
9・17
軍装検査
9・19
明治神宮参拝、乾杯、於品川積載
9・20
品川駅出発
9・21
大阪港着 西区本田三番町京屋宿泊
9・22
后8時より東崗丸へ乗船(大阪第一突堤)
抜錨午后12時
四千二百噸
齢30年の老貨物船にして
歩兵迫撃砲隊の馬と同船なり
9・23
夕方大連気船社長より
神酒手拭の慰問あり
9・24
軍艦旗をなびかせたる潜行艇現はる
我と同種船は6隻にして各船水兵乗込む
夕方駆逐艦左舷に出現
9・25
駆逐艦シラユキと判明す 海は大荒
9・26
いよいよ揚子江に入る
1時頃呉淞を過ぎ黄浦港に入る
破壊されし建物点々とあり
其の中に農事に従事する支那民を見る
3時15分OSK埠頭着
左岸に並ぶ我軍艦の中トモヅルより
打出す砲弾の弾着を眼前に見る
我飛行機の機関銃射撃もあり
揚樹甫上陸 銃声あり 雨、蚊あり
煙草会社より「上海ボ-セキ」に移り露営
途中砲弾爆弾の跡点々たり
9・27
睡眠の間もなく出発
揚樹浦軍工場を過ぎ
宝山の西南2キロに進む途中
歩哨に捕へられたる支那人3人を見るのみ
印度人の多きに驚く
友軍至る所にあり
陸、海、空軍の根拠地あり
軍馬支那兵の死せるを見て心地良からず
大金家に露営待期
9・28
夜8・30明日より戦闘参加を命ぜられる
9・29
楊行鎭に向い出発
寺前村附近に陣地占領
揚子径附近の砲兵を砲撃す
9・30
敵前千五百米砲銃声雨の如く一夜鳴続く
明くれば9時より大場鎭方面を砲撃す
10・2
昨一日進出したる大王宅より
更に前進 観測所を出した
砲列より線7巻
敵前400にして我最前線も目前に見え
敵弾雨の如し
途中死体累々我戦死者の
後送或は火葬を見る
10・3
リュ-家行
西南無電台に観測所を前進
我通信延線12巻 前后数米に
敵砲弾8発落下
弾片を浴びる
生気なし
流弾頻にして周囲の馬倒ること数頭
??の声も間近
10・5
昨日午前6時軍砲兵となり
内山少将の指揮下に入る
(野重15、攻城第5大隊、気球第3中隊)
野戦銃砲第5旅団
本日気球昇る瞬間に目標となり
敵砲弾附近に落下、
昨夜間の補線困難をきはむ
10・8
昨日来雨止まず
壕内は泥水満ち道路滑りて歩行困難なり
大阪出発依頼始めて体を拭く
面洗器に半分の湯をもてせり
10・9
内山少将のもとを離れ、
福田中佐の指揮に入る
(3日より陣地は文衛堂)
10・13
大塘南に前進陣地侵入
野砲15榴より前なり
本日の目標洛陽橋(大場鎮・南翔中間)
10・15
連隊本部(顧家宅)の屋上に観測所を出す
相当なる紡績工場なり
滅茶苦茶に破壊されあり
遥か上海を見る
引上る時敵砲弾落下
人馬殺生さる
10・16
神嘗祭
前8・30勅諭奉読 皇居遥拝
10・20
飛行機観測にて311砲兵を制圧
大いに効果あり
午后、腹巻、チリ神、キャラメル、
ピ-ス、地下足袋、ほまれ、
マッチ等支給さる(宗宅)
10・21
南翔東方砲兵を制圧す 飛行機にて
夜間に到り九D(第9師団のこと)前面の敵
大逆襲との報ありて銃声頻り
敵砲兵も我砲兵隊を撃つ
其の落下する砲弾の多きこと
戦闘参加以来なり
10・23
本日靖国神社の大祭にて東を向ひ参拝
中隊長の訓話あり
午后我中隊敵砲弾の為め2名戦死
10・24
夜来敵退却の兆しあり
軍砲兵たる我々は有利なる
目標を発見次第猛撃を加ふ
痛快なり
午后八房宅に前進(小包、新聞届く)
10・25
前8時より又八房宅へ
更に坍石橋電話連絡
本日9・17日附の命令にて砲兵伍長に任官
10・26
昨日の線を撤収す
10・27
陣変換更に前進坍石橋を過ぎ
遂に敵の軍用舗装道路(大場鎮→南翔)に出る
大場鎮西方約三千陳家白墻東南側に
陣地占領観測所を之また
遂に眞茹無電台に出す
之を以て完全に敵を両断せり
点々たる敵死体は生々し敗残兵随所にあり
10・30
早暁陣地変換眞茹駅北方約三千に
陣地を占領(梨子園西方)観測小隊は美麗なる家なり
11・1
南翔方面に前進
朱宅西北に陣地占領
11・2
大阪出発以来始めて風呂に入る
甕なり
11・3
明治節、前8・30皇居遥拝及び
乾杯万歳三唱後先ず
皇礼砲の意味にて敵を撃つ
本日菓子、酒、ビール、煙草、氷砂糖の
下給品及び酒保売品更に始めての慰問袋あり
されど体の調子良からず残念なり
11・6
本日午前 腔発あり
(注:砲弾が砲身の中で爆発する事故)
11・9
蘇洲手前李家宅に陣地変換
華幸鎮を攻撃 主線南方
11・10
主線を西方に変換
正午撤収眞如駅閘北側より
上海の西南を迂回龍華鎮に向う
途中陣地変換の友軍の部隊多く
宋家宅に止まる
11・11
睡眠を取ることなく前2時半延線
龍華鎮向う
暗夜にて困難をきわむ
朝食12時直ちに黄浦江手前(佛租界手前)
市政府まで延線十巻
南市城内の敵を攻撃
黄浦江を渡河し逃ぐる敵を撃つ
11・12
朝食時突然陣地変換
雨の夜を徹し南翔、馬陸鎮を過ぎて
嘉定方面に追撃前進
嘉定を過ぎ13日午後
外崗鎭付近に陣地占領、
大倉を射撃
11・14
朝食后陣地変換太倉に入る
豚鳥を取りて夕食とす
但先行班のみ
支那酒又豊富なり
(20日附の手紙受領す)
橋の破壊されしもの多き為め
中隊と離れ観測小隊の一部
太倉城外に止まる
(金家宅)
11・15
崑山への進路を変え西南に向かう。
白茆新市に止まる
11・16
徒歩にて観測所呉宅頭に前進、
古里村に陣地侵入 線15巻
中隊、砲列、大隊本部に3巻
常熟の敵頑強なり
11・21
夜半敵兵変の報あり
機械化部隊を編成し
常熟より無錫に急迫の行動を起こす
前5時出発 雨、霧、寒気激しく
ぬかるみ膝を没し生気なし
夕食なく11頃民家に入り
火をたきて漸く人心地つく
常熟を越え約9里の地点なり
11・23
無錫方面に前進途中石橋様に陣地占領
観測所を陳家銭坊と云う山に出す
渡支以来始めての山登りなり
山上にト-チカあり
敵死体点々
友軍の死傷の跡生々し
霧降る
11・25
放列を前進
孫子基上に陣地占領す
観測所二千米前進
無錫の敵は頑強にて近き
一線より弾頻りに来たる
11・26
前進東亭鎮にて昼食
頑強なる隊友なり
我射弾のトーチカに命中せるを見る
呉庄に陣地侵入
退却の敵を砲撃
露営
11・27
無錫の入り口に泊まる
11・28
6時出発前進無錫通過
途中より北に向ひ
揚子江沿岸紅陰県(砲台あり)より
三里手前揚家橋に陣地占領
左右前の山に延線11巻(泰皇山)
11・30
陣地変換前方に前進(夕方)
敵砲弾頻りに来たる(変換前から)
12・1
陣地南閘鎭城壁を盛んに攻撃す
此の2,3日疲労甚だし
通信網構成は早暁より
不眠不休にて明朝に到る
12・2
7時半敵を後に突然陣地変換
常洲城内に止まる
12・5
常洲を出発、
金壇、丹陽を経て南京に向かわんとす
途中道路悪く困難ならん
金壇を過ぎ露営
12・6
途中橋梁破壊、
戦車壕等にて捗らず
天王寺を過ぎ夜を徹して行軍
12・7
敵飛行場らしき兵舎に夜12時に着く
12・8
前進砲兵学校に泊まる
迫撃砲弾盛んに落下
12・9
前進敵歩兵学校に泊る
但他大隊師団司令にて休めず
12・10
南京城にせまり陣地占領
中山陵等を砲撃
敵弾来ること大場鎮以来
布設地雷等も所々にあり
南京は堅し
観測所より城壁東側迄
約二千五百なり
第二大隊編入
12・12
夕方身近に敵速射砲らしきもの落下
耳痛し 1
12・13
南京城頭ヘンポンと日章旗翻る
陣地城壁の近くに移動
第一大隊及第一中隊は
昨夜敵襲に遭い
戦死傷者を出すとの報あり
二中隊は正午一大隊に復帰
陣地変換
一中隊通信掛下士官青木軍曹(地雷)の
火葬に敬意を表し直ちに戦闘開始す
夜に入り敵襲あり二度抵抗線に付く
連隊本部の兵1名負傷
12・14
続々と観測所より敵大部隊を見る
歩兵1中隊で15000のその敵兵を武装解除す
夜に入り見れば実に壮観なり
夜工兵学校に入る
12・15
南京城に入り、軍官学校に宿営す
12・17
入場式を挙行 司令官来たる
12・18
慰霊祭あり
12・24
軍官学校を出発
句容を過ぎ鎭江手前の
江蘇省国民軍事訓練所に集結す
軍砲兵の一部は常洲に集結せり
12・31
中隊長、連隊長より訓示あり
町内会より慰問袋来る
つづきを読む
従軍手帖は個人の日記帳の様な物で、
軍から支給されたものや個人で
調達したものがあります。
野戦重砲第15連隊では、
急ぎの動員だったため軍からの支給が間に合わず、
途中で支給されようです。
この手帖は昭和14年2月に支給されています。
そのためそれまでは個人の手帖を使用していました。
南京戦の場合は多くの部隊がそうだったようです。
以下は支給品の手帖画像です。
個人の手帖も含め、内容に付いては
次に細かく書きます。
原子力発電と放射線
戦争・歴史
健康