憲法の戦争放棄条項が日本側の依頼なのか
アメリカの押し付けかという論争があります。
これに付いては、昭和39年2月に、
元衆議院議員平野三郎氏が幣原喜重郎氏から聴取した資料があります。
前回の幣原、マッカサ-会談のことが書かれています。
憲法調査会事務局の資料から転用します。
●幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
→幣原発言のみを書きます。
◎そのことはここだけの話にしておいて貰わねばならないが、
実は昭和20年の暮れから正月にかけて僕は風邪をひいて寝込んだ。
僕が決心をしたのはその時である。
それは僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。
元来、第9条のようなことを
日本側から言い出すようなことは出来るものではない。
まして天皇の問題に至っては尚更である。・・・
幸いマッカ-サ-は天皇制を存続する気持ちを持っていた。・・・・
ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。
それはオ-ストラリアやニュ-ジ-ランドなどが、
天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。
これらの国々は日本を極度に恐れていた。
日本が再軍備をしたら大変である。・・・・
◎この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を
同時に提案することを僕は考えた訳である。
◎この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、
仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。
憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、
当時の事情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
◎そこで僕はマッカ-サ-に進言し、
命令として出して貰うように決心したのだが、
これは実に重大なことであって、
一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す
国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君にさえも打明けることの出来ないことである。
幸い僕の風邪は肺炎と言うことで
元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰い、
それによって全快した。
そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。
それは昭和21年1月24日である。
その日、僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。
すべてはそこで決まった訳だ。
これと同じ内容が幣原喜重郎の公式伝記にもあります。
内容は重複しますがこれも合わせて書きます。
●公式伝記幣原喜重郎 幣原平和財団
幣原首相は昭和20年の暮肺炎に罹って寝込んだ時、
マッカ-サ-元帥から早速見舞いとして
当時まだ日本にはなかったペニシリンを贈られた。
そのお蔭で幣原は間もなく全快した。
そこで幣原は床あげするや、真っ先に参内して御礼を言上し、
次いで総司令部にマッカ-サ-元帥を訪ねて謝意を表した。
それは昭和21年1月24日の正午の事であったが、
お互に話込んで午後3時頃迄ゆっくりと閑談した。
その時の談話の内容を総司令部側から仄聞すると、
幣原は日本の国体や、天皇と国民の特殊関係を
よく理解のできるよう陳述するとともに
日本はどうしても天皇制でなければ
平和に治まらないことを諄々と説き、
更に彼が病中に於いて霊感した所感だといって、
「原子爆弾が出来た今日では世界の情勢は全く変わってしまった。
だから今後平和日本を再建するには、
戦争を放棄して再び戦争をやらぬ大決心が必要だ。」と述べた処、
この幣原の主張は痛くマッカ-サ-元帥を動かしたということであった。
それからまもなくマ元帥の日本天皇制維持の指令がだされたのであった。
従って叙上の事情から、これを判断すると、
このとき幣原が主張したことは、
彼れ是れ迷っていたマ元帥の決心に最後の断下さしむるに
相当大きな影響力があったと謂わなければならない
当時の子ども向けの漫画にもそのことが書かれています。
●小学館の学習漫画「少年少女日本の歴史」第20巻 東京新聞2016年11月6日より
◎上の図には戦争放棄を日本側から依頼した用に描かれています。
つまり幣原喜重郎がマッカ-サ-に対して依頼したのです。
◎下の図つまり1994年2月発行の第35刷りでは、
マッカサ-から押し付けられたように変更されています。
◎意図的に正反対に書き直されたのです。
どのような意図で誰の指示で変更したのかは分かりませんが、重大なことです。
その結果でしょうか現在では
憲法はアメリカから押し付けられたとして、議論が進んでいるのです。
●1946年 1月25日、
マッカ-サ-が本国に「天皇に責任なし、
天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、
占領軍増員が必要となるだろう」と電報で報告
● 同 2月1日、
毎日新聞が政府・松本委員会の試案をスク-プ
そして政府案は次に書きます。