1942年1月4日、
日本陸軍第15軍はタイで編成されたビルマ独立義勇軍と共に
タイ国境からビルマへと侵入を始めました。
3月にラング-ン、5月にはマンダレ-と
占領地を広げ軍政を開始しました。
●ビルマ独立義勇軍
開戦前に日本軍は密かに
ビルマのタキン党員30人を軍事訓練し、
それらが中心になってタイ領内で
ビルマ独立義勇軍が組織されました。
8月1日に第15軍は「ビルマ中央政府」の開庁を指示し、
行政長官にバ-・モウ氏が指名されました。
翌1943年8月1日には
「日本・ビルマ同盟条約」が結ばれました。
その後連合軍の反撃で戦況は悪化し、
1944年3月8日からのインパ-ル作戦は敗北で
7月2日に中止されました。
インパ-ル作戦は72,480人の日本兵が
戦死、病死した作戦でした。
日本・ビルマ同盟条約の内容は
日本の大東亜戦争に協力する内容になっています。
●日本国ビルマ国間同盟条約 昭和18年条約第9号
8月1日発効、8月4日公布 原文カナ
第1条 日本国「ビルマ」国は大東亜戦争完遂の為
軍事上、政治上及び経済上あらゆる協力をすべし
第2条 日本国「ビルマ」国は大東亜各国の共栄を趣旨とする自主的発展
及び大東亜興隆の為の共同の建設に付相互に緊密に協力すべし
以下省略
ビルマでも日本軍による住民虐殺は沢山あったようです。
その中でも最も大規模な事件はカラゴン村の虐殺です。
ビルマ南東部モ-ルメン地方にある
インド人の村カラゴンは
イギリスの136部隊に好意的な村でした。
スパイ行為の疑いを持った
第33師団歩兵第215連隊第3大隊と憲兵隊は、
1945年7月7日その村を襲い村人を集め取調べをしました。
そして翌日の7月8日、約640人の村人を虐殺したのです。
生き残った村長が確認したところ、
殺されたのは、男174人、女195~196人、子ども266~267人、
合計で637人になりました。
11日に戻って来た日本軍は村に火をつけ、
約10人の女性を連行しました。
この事件はイギリスによるBC級裁判で裁かれ
第3大隊長市川清義少佐は死刑になっています。
●その時の市川の訊問内容です。
Q:あなたは女性や子どもが日本軍に敵対する行為を行なっていたと本当に考えているのですか
市川:はい
Q:幼児を殺した事をどの様に正当化するのですか
市川:子ども達を扱う他の選択肢はありませんでした
Q:もう少し詳しく説明してください
市川:第一に、私が受けた命令の中に
子ども達を殺す事も含まれていました。
もし私が子ども達を救っても、
彼らは孤児になり生きていく事は出来なかったでしょう。
時間を節約し、私の任務を遂行するために
私は彼らを殺さざるをえなかったのです。
当時討伐がどの様な雰囲気で行なわれたのか資料を見てみます。
●兵隊蟻が歩いた 古山高麗雄陸軍1等兵
・・・・あの匪賊討伐というのも変なものであった。
班長の話では、兵隊がたるんでいるので、
気合を入れるための匪賊討伐だという。
演習代わりだというのであった。
本当にそういう趣旨のものであったのか、
それは単に班長がそんなふうに言っただけなのか、
私には分からないが、
その討伐では、村が焼かれ、
見せしめの為の公開斬首が行なわれた。・・・
ビルマ族は親日的、カレン族は親英的、
従ってカレン族はスパイであり匪賊とされた。
神国の軍隊には、そのような考え方で、併
せて演習代わりに匪賊討伐に出かける体質があった。・・・・